会いに行く 発熱でおかしくなってるカイジの話 ギャグ?
昔。
まだ学生だった頃、ほんの一時期だけつきあっていた彼女に、振られたことがある。
つめたい雨の降る放課後に、オレたち以外に誰も居ない教室で、その子はうつむいてちいさく『もう別れよう』って切り出した。
だって伊藤くん、自分からわたしに会おうとしてくれたこと、いちどもないじゃない。
わたしばっかり会いたいみたいで、なんかもう、疲れちゃった。
そう言って、彼女は自嘲気味に笑った。
彼女が笑うと長い髪が震えて、オレはなにも言えないまま、それをただじっと見つめていた。
黒々とした睫毛がうっすら濡れているのを知っていたから、彼女の顔から目を逸らし続けて。
まだ名字で呼び合っているような、浅くて短いつきあいだったけれど、たったそれだけの間に彼女は、人付き合いに向いていないオレの性質になんども傷つけられ、そのたびに涙を零していたのかもしれない。
枕元に置いた携帯電話を見ながら、オレはその時のことを思い出していた。
彼女を傷つけてしまったことへの、果たしてこれは、酬いなんだろうか。
頭が痛い。たぶん、熱もある。バイト先に休みたいって連絡したら、しばしの沈黙が続いたあと、電話はブツリと切れた。
その音がやけに重々しかったので、きっとそのとき、店長の堪忍袋の緒もいっしょに切れたのだろう。
そう解釈すると、まるで石でも飲み込んだみたいに胃が急激に重くなり、こみ上げる吐き気とともに視界がぐにゃぐにゃ歪みだした。
窓の外の空は澄み渡り、小鳥がたえず囀っているような陽気だというのに、オレは首までふとんに包まり、悪寒にガタガタ震えながら自分の腕や肩を撫でさすっている。
惨めな気分だった。オレは風邪なんて滅多にひかない。免疫がないから、ひいたときは体だけでなく心までどん底まで落ち込んでしまう。
視界にずっと入っている携帯電話は、ぴくりとも振動しない。
こんな風になっちまってるのにって思ったけど、あの人はオレがこんな状態だなんて知るわけがないから、仕方ない。
顔だけでも見せてくれねえかな、って思った。
熱で頭がぼうっとしている。だけど、こう思うのは風邪のせいだけじゃない。
だってオレは、あの人に対しては、割といつだって、そう思ってるから。
我ながら重篤だ。そこに、体調不良からくる心細さが加わったせいで、忘れかけていた学生時代の恋愛なんて、思い出したりしちまうんだ。
部屋がぐるんぐるん回って見えてきて、堪えきれずにオレは目をかたく瞑る。
そういえば、オレからあの人に会いに行ったことは、今までいちども、ない。
昔のことを思い出したせいで、ふとそんなことに、今さらながら気がついてしまった。
いや、本当はずっと気がついていたけど、気づかぬふりをしていただけなのかもしれない。
だって、会いに行きようがない。あの人は携帯電話なんて持ってないし、連絡の取れる番号も、オレは知らない。
会うときはあの人がここを訪ねてくるか、どこか外で待ち合わせするか、そのどちらかだ。
待ち合わせにしたって、いつもあの人の方からオレの携帯に電話してきて、一方的に約束をとりつけるのだ。
自分からあの人に繋がる術を、オレはなにひとつ持っていない。
悪寒がひどくなった気がした。
あの人が今ごろどこで、誰と、どんなことをしているかなんて、皆目見当もつかない。
風邪で寝込んでたって、どんなにしんどくたって、会いたいって一言を伝えることすらできない。
オレはいつだって、あの人の気まぐれな心がこちらを向いてくれるのを、ひたすら待つだけ。
喚き散らしたい気分だ。これは酬いなんだろうか?
人付き合いに怠慢だったせいで、傷つけてしまった彼女への。
思い返してみれば彼女は、いつも自分の方からオレに会おうって言ってくれた。
それがどれだけ勇気のいることで、オレなんかが相手だとさぞ虚しかっただろうに、めげずに暖簾になんども腕押ししてくれていたんだってことを、オレは今、初めて理解した。
彼女はオレを好きでいてくれたんだ。
そんなことに今さら気がつくなんて、救いようのない大馬鹿者だ、オレは。
ほんの僅かしか記憶にない、彼女の笑顔が脳裏にちらつく。
情けなくて、涙が滲みそうになった。
熱が上がっているせいで、妙な考えばかりが膨らんでいく。
オレも、あの人に会いに行くべきなんだろう。
ほんとうに好きなら、連絡手段がないとか、そんなことをうだうだ言ってないで、行動すべきなんだろう。
一晩中歩き回って、名前呼び続けて、心当たりのある場所の扉を叩いて、すれ違ったすべての人に声をかけて。
足が棒になるまで歩いて、声も枯れ果てて。
それでも会うことなんて、きっとできないだろう。
そのうち夜明けが来て、とぼとぼうちに帰って、薄い布団の上に沈み込んで、そうして、夢もみないくらい深い深い眠りに就くのだ。
それくらいできれば、あの人も少しはこちらを見てくれるかもしれない。
そんなバカバカしい妄想をしたが、すぐに自嘲の笑みを浮かべた。
いや、そんなはずはない。神様はいつだって気まぐれなのだ。努力して努力して努力して、それでも報われない人間がこの世にどれだけいると思ってる。
オレなんかがちょっと行動を起こしたところで、うまくいくはずがないんだ。
会うためのろくな努力もしてないくせに、そんな風に考えを棄てる。
わかってる。本当は面倒くさいだけなんだ。会えるかどうかわからない人にがむしゃらになるなんて、馬鹿げているし、所詮徒労に終わるって頭から決めてかかっているだけなんだ。
ああ、オレはやっぱり、学生の頃からなんにも変わってない。
そう嘆いてみるが、それだけ。
どんなに相手が恋しかろうと、自分の中に変わる気なんてさらさらないのは、明白だった。
会いたいです。
心の中でそう呟いてみたって、電話は鳴らない。
なんだか無性に腹が立ってきて、役立たずのそれを壁に向かって投げつけようとしたけど、もしも壊れちまったら買い直す金なんてないし、やめといた。
むんずと掴んだそれを、元の位置にそっと置き直したとき、視界がじわりと滲み、歪んだ。
目眩のせいだろうか。
本当はそうじゃないってことはわかっていたけど、オレはそうやって自分自身を誤魔化して、部屋でひとり、震える体をひたすら、撫でさすり続けている。
終
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