鬼ごろし カイジが酔いどれるバカ話



「鬼ごろし?」

 卓袱台の上に置かれた、緑色の四合瓶のラベルに書いてある文字を、カイジが声でなぞった。
「なんか、聞いたことある名前だな……」
 カイジの言葉を受け、アカギは頷く。
「鬼ごろしって名前の酒は、全国いろんなとこで造られてるんだぜ。これは、北陸地方の地酒」
「へぇー……!」
 感心したように呟き、カイジは対面に座るアカギを見た。
「お前、北陸なんて行ってたのか?」
「いや、これはたまたま最近、飲む機会があって。うまかったから、取り寄せてもらった」
「ふーん……」
 カイジは瓶を手元に引き寄せ、物珍しげに眺め回す。
 ラベルには『搾りたて生原酒』とあり、緑の瓶の底の方には、白い沈殿がある。濁り酒だ。
 熱心にラベルを読み込むカイジに、アカギは薄く笑う。
「そうやって眺めてたって、酒の味なんてわからないぜ? 早く開けようよ」
 アカギが言うと、「そうだな」とカイジは立ち上がった。




 カイジのうちには猪口なんてないから、グラスをふたつ用意する。
「じゃあ、開けるぜ?」
 カイジがうきうきとアルミの蓋を剥がすと、ほのかな甘い香りが鼻先をやさしく擽る。
 空気の底に響くような音をたてて冠頭を引き抜くと、たちまちぶわりと溢れ出す芳香にくらくらした。

 瓶を傾けて注ぐと、やわらかな乳色をした液体が、透明なグラスを満たす。
 とりあえずグラスの半分くらいまで注いで、カイジは瓶を置いた。
「んじゃ、乾杯」
 互いのグラスを触れ合わせるのも早々に、カイジはいそいそと酒に口をつける。
「……」
 ぐび、と喉を鳴らして最初の一口を飲み下し、カイジは目を丸くした。
「どう?」
 アカギが訊くと、カイジはグラスをまじまじと見ながら、感想を述べる。
「なんていうか、予想してたのと違う……」
「口に合わなかった?」
 アカギの言葉に、カイジは首をぶんぶんと横に振る。
「や、そうじゃなくて。名前から、もっとガツンとくるようなのを想像してたから」
「そう?」
「びっくりするほど、飲みやすいんだな。炭酸入ってるけど、弱いし」
 驚いたようにそう呟いて、カイジはあっという間にグラスを干した。

「気に入ってくれた?」
 アカギの問いに、
「ああ。わざわざ取り寄せてくれたんだろ? ありがとな」
 と答え、カイジは顔を綻ばせる。
「よかった」
 アカギはそう言って、酒瓶をカイジのグラスに傾けてやった。




 カイジがコンビニで買い込んできた、あたりめやらポテチやらチーカマやらを卓袱台の上に所狭しと並べ、酒宴が始まった。

 酒のうまさと、久し振りにアカギに会えたことで気分上々なカイジは、ハイペースに飲み進めていく。
「それにしても、こんな生易しい酒で鬼が殺せるのかよ? ……うまいけど」
 なんていいながら、三杯目のグラスを空にしたカイジに、すかさず瓶の口を向けてやりながら、アカギは内心、ほくそ笑んだ。


 確かにこの酒、『鬼ごろし』という厳ついネーミングからは想像できないほど、口当たりはまろやかで、甘味が強い。
 そこに、ごく淡い炭酸がいいアクセントとなって、日本酒なのに、まるでジュースみたいにすっと飲める。

 しかし、それこそが鬼をも殺すための秘策。
 さっぱりとした飲み口だが、実はアルコール度数はそこらの清酒より高めに設定してある。
 爽やかな後味に騙され、調子に乗ってぐいぐい煽れば、本人も気がつかぬうち、たちまちに酔う。
 柔和な見た目で欺いて、背後でしっかりと鬼を刺すための武器を隠し持つ。そんな、強かな酒なのだ。


 アカギにこの酒を薦めたヤクザが、欲しい女をベロンベロンに酔わせるために、この酒をよく使うのだと言っていた。
 つまりは、そういうこと。
 頬をうっすら上気させながらあたりめに手を伸ばすカイジを、自分のグラスはほとんど空けないまま、アカギは悪い顔をして見守った。







 やがて、瓶の中身が半分くらいまで減った頃、その時はやってくる。

 一服しようとアカギがタバコを取りだしていると、いきなり、カラン、と高い音が鳴った。
「……あれ」
 カイジは空の右手を不思議そうに眺めている。
 どうやら、缶詰の牛スジをつまもうとして、箸を取り落としてしまったらしい。
 よく見ると、その頬は真っ赤に火照り、目はとろんと潤んでいる。
「拾わなきゃ……」
 呂律も怪しくそう呟いて、カイジは床にごろりと寝転がった。

「カイジさん?」
 アカギが様子を窺うと、カイジは床に落ちた箸を手探りしながら、ぽつりと零す。

「なんか、体に力、入んねぇ……」
(あらら……これは)

 熱っぽいため息を漏らすカイジを、含み笑いしそうになるのを堪えながらアカギが観察していると、やがて、カイジがのそりと体を起こした。
 机に上半身を預け、大儀そうに息をついているが、すっかり緩みきった表情を見るに、気分は悪くなさそうだ。
 拾うのを諦めたらしく、箸は依然、カイジの傍に転がされている。


 カイジは頬杖をつき、アカギの顔をじっと見つめる。
 瞼が半分落ちているせいで、普段の険がとれ柔らかくなったその瞳に、欲望をそろりと刺激されながら、アカギもカイジを見返す。

 しばらくそうやって見つめ合っているうち、カイジが口を開いた。
「寂しい……」
 吐息とともにカイジの唇から漏れ出た台詞に、アカギは我が耳を疑ったが、酔いに細められた目端から透明な雫がつうっと滴るのを見て、今度は自分の目を疑った。
 最初の一筋が零れ出してしまうと、堰を切ったようにどんどん流れ出してくる涙を拭おうともせず、カイジは震える声でアカギに訴える。
「アカギっ……オレ、オレはっ、寂しいっ……!」
「急に、どうしたの? カイジさん」
 冷静な声でアカギが問うと、カイジは恨めしげな目をする。
「ひっさびさに、お前にっ、会えたのにっ……! お前がそんな、遠くにいるからぁっ……!」
 叫ぶように言い切り、カイジは肩を震わせて泣きじゃくり始める。
 身も世もないその様子に、はじめこそ呆気にとられたアカギだったが、薄く開かれた唇が垂れ流しの涙や鼻水でびっしょりと濡れていくのを見て、思わず唾を飲み込んだ。

 立って卓袱台を回り込み、カイジの隣に座る。
「これで、いい?」
 カイジはうつろな目でアカギを見上げたあと、体を起こしてアカギの胸に倒れ込んだ。
「ん……寂しくなくなった……」
 へへ、と、普段しないような笑い方で笑って、カイジはアカギの胸にすりすりと頬を擦り寄せる。
 ちょっとした悪戯心でアカギが体を退けば、それに合わせてカイジの体もずるずると倒れていき、胡座をかいたアカギの腿に頭を乗っけて、ぐでんと床に伸びきった。
「カイジさん」
 名前を呼んでやると、カイジはもぞもぞと体を動かし、心底幸せそうな顔でアカギを仰ぎ見る。
 顔に貼りついた髪を掻き上げてやりながら、アカギは滅多に出すことのない、柔らかな声で話しかける。
「ねぇ、カイジさん。オレのこと、好き?」
 すると、カイジは眉を寄せ、唸り声を上げながら考え込む。
「んー……好きじゃない。」
「え……そうなの?」
 予想に反する回答に、アカギの眉も寄る。
 うんうん唸りながら回らない頭を必死に働かせているらしいカイジの口から、ぽつり、ぽつりと言葉が零れ始める。
「なんてーか……好きとかあいしてるとか、そういうんじゃねぇんだよな、おまえとはさ……」
『あいしてる』なんて言葉がカイジの口から出てきたことに僅かならず驚いたアカギだったが、その口振りから期待以上の答えを聞けそうだと感じ、先を促してやる。
「じゃあ、オレのことどう思ってるの?」
「んんー……」
 難しい顔で、ああでもないこうでもないと言葉を転がしていたカイジだったが、やがて諦めたのかように目を閉じ、ため息をついた。
「……やめた。言葉なんかじゃ言い表せねえよ。口に出したら、どれもなんか安っぽくってさ」
 アカギはすこしだけ不満に思ったが、それでもカイジの答えはアカギの心を満たすに足るものだった。
 褒美を与えるように喉元を擽ってやれば、猫でもないのに気持ちよさそうに目を細め、『もっと』とねだるようにアカギの手に頭を預けてくる。
 泣いたせいで赤い目に、同じくらい赤く染まった頬。
 ゆるゆるに緩みきり、しどけなく投げ出された肢体を、さてどのように料理してやろうかとアカギは内心舌舐めずりした。

「カイジさん……」
 音を消した声で囁けば、たちまち場の空気が色を変える。
 熱に潤んだ黒い瞳が、ひたむきにアカギを見上げてくる。
 長い髪を一度、くしゃりと掻き回してやったあと、アカギは屈み込み、美味そうに濡れ光るカイジの唇を吸った。
「ん、んん……あか、ぎ……ふぁ、」
 すぐに舌を差し込めば、カイジも喘ぎながら絡ませてくる。
 口内がひどく甘く感じるのは、果たして酒のせいだけだろうか。
 伸ばされたカイジの手指に耳の辺りを撫でられ、ぞくりと鳥肌がたつのをアカギは感じた。
 唾液を送り込んでは啜りあげる淫靡な口吻に、アカギの一物は固く勃起し、下穿きの布地の下で窮屈そうにしている。
「ん、んく……」
 まるで赤ん坊が乳を吸うように舌に吸いついてくるカイジに、このままずっとキスしていたいと感じつつも、次の行動に移るべくアカギは誘惑を断ち切る。
 舌をもつれさせながら唇を離すと、粘度の高い唾液が糸を引くとともに、カイジの口からぐずるような声が上がった。
「大丈夫だよ。これからもっと、よくしてあげるから……」
 髪を撫でながらアカギが囁けば、カイジはたちまち頬を緩めて目を瞑り、
「……」
 そのまま、すうすうと寝息をたてはじめた。
「まだ、眠っちゃ駄目だぜ?」
 アカギが肩を軽く揺すっても、カイジは起きない。
「……だから、寝るなってば」
 力を強めて激しく体を揺さぶるが、カイジの瞼は貝のようにしっかりと閉じ合わさったままだ。
「……カイジさん?」
 耳元まで口を近づけ、鼓膜が破れるような大声で名前を呼んでも、カイジはぴくりとも動かない。

「……」

 幸せそうな寝顔を見下ろし、アカギは絶句した。
 昂ぶらせるだけ昂ぶらせておいて、いざコトに及ぼうとした瞬間おあずけなんて、こんな仕打ちがあっていいのか。
 腹立ち紛れに、腿の上に乗っかっているカイジの頭を床に落としてやると、ゴス、と鈍い音がして、カイジが顔をしかめる。
 目を覚ましたかと期待するアカギを裏切り、カイジはむにゃむにゃと口を動かしたあと、大きな体を器用に丸め、さらに深い眠りに入っていった。

 いつもより荒っぽい寝息を聞きながら、アカギはぽつりと漏らす。
「起きたら、覚えてろよ……カイジさん」
 自分を見つめるアカギが幽鬼のように恐ろしい表情をしていることを知らないカイジは、愉快な夢でも見ているのか、その口の端にふわりと笑みを上らせた。

 アカギは深くため息をつき、半分ほど酒が残ったままのカイジのグラスを手に取る。
 まるで自分の胸の内を現しているような、どろりと白濁した液体を暫し、眺めた。

 間接的とはいえ、図らずも、名前通り鬼を殺すことに成功した酒瓶は、どこか誇らしそうに卓袱台の上に鎮座しており、生殺しにされた鬼はそれを睨みつけながら、ひとり、自棄のようにグラスを煽るのだった。







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