正しくない 無免許でドライブする話 アカギ視点


 運転席に座り、エンジンをかけると、助手席の窓がコツコツと叩かれた。
「なぁ……本当に行くのかよ?」
 窓を下げてやると、不安でいっぱいの面持ちのカイジさんが、そう問いかけてくる。
「当たり前でしょ。あんたこそ今さら、往生際が悪い。さっさと乗りなよ」
 冷たく突き放してやると、カイジさんはぐっと言葉を飲み込み、しぶしぶ、助手席の扉を開けた。

 ドライブに行こうと誘ったのは、オレの方からだった。
 前回カイジさんと会ったとき、暇つぶしでババ抜きをした。
 もちろん、どちらがジョーカーを持っているかなんてすぐにわかってしまうが、まあ、それなりに楽しめた。
 なにか賭けた方が盛り上がるだろうというカイジさんからの提案で、負けた方が勝った方の言う事をなんでもひとつ聞く、ということになった。
『十回勝負で一回でもオレに勝てば、即、カイジさんの勝利』というハンデを与えたが、終わってみれば十勝零敗で、オレの勝ちだった。

 それから、次にカイジさんに会うまでの約一ヵ月間、なにをさせようかとくとくと熟考した結果、『オレの運転する車でカイジさんとドライブする』という案に落ちついた。
 というわけで、前回負けたカイジさんへの、これはいわば、罰ゲームなのだった。
 ドライブなんて思いついたのは、久々に自分で運転したくなったのと、あとは単に、カイジさんへの嫌がらせである。

「お前……無免許なんだよな?」
 シートに浅く腰掛けながら、カイジさんが訊いてくる。
 すでに再三、同じ質問をされていたが、面倒臭がらず、はっきりと頷いてやる。
 すると、カイジさんは絶望の呻き声を上げながら頭を抱えた。

「真面目に教習所に通ってるお前なんて想像できねえし、したくもねえけどっ……! 普通に法律違反だろうがっ……!」
「だから、万が一のことを考えて、この時間帯にしたんじゃない」
 今回の罰ゲームを提案したときから、カイジさんは無免許がどうだの、法律がどうだのとやかましかった。
 だから、車通りも少なく、サツにもパクられにくいであろう、午前三時なんて時間帯をわざわざ選んで、迎えに来てやったのだ。

 カイジさんは落ち着かなさそうに、車の内装をジロジロ見回している。
「どうやって用意したんだよ? この車……」
「知り合いの車借りた」
「お前の知り合いって、まさか……」
 こころなしか青ざめた顔のカイジさんに、浅く笑って答えてやる。
「まぁ、ヤーさんだね」
 今や日本人なら誰でも知ってるような高級国産車のエンブレムと、黒塗りの外装で薄々勘づいてはいたようだが、改めて事実を告げられたカイジさんは、「ひっ」と喉の奥から間抜けな声を漏らした。

「ももも、もし、ぶつけたりなんかしたら・・・・・」
 わたわたし始めるカイジさんに、『そんなヘマするかよ』と思ったが、敢えてそうは言わずに、軽く肩をすくめる。
「まぁ……そんときは、あんたも連帯責任だな」
「なんでだよ! オレはあんだけ止めたじゃねーかっ……!」
「堂々と隣に乗っておいて、『私は事前にちゃんと止めました』なんて言い訳、通用すると思う?」
 まだアクセルも踏んでいないというのに、カイジさんはもう泣きそうな顔で、八つ当たりのように乱暴にシートベルトを引っ張った。
「ぜってぇ、事故んじゃねえぞ……っ! もし事故りやがったら、もう、マジ、殺す……っ!」
「はいはい……じゃあ、出すよ?」
 ギアをドライブにシフトし、ゆっくりとアクセルを踏むと、車はやさしく夜の道を滑り出した。



 項垂れたカイジさんを隣に乗せ、街灯に照らされる夜道を走る。
 べつに海が見たい気分ってわけでもなかったが、手頃な距離にあったし、なんとなく、行き先は海にした。
 オレは一晩中走っていてもいいと思っているけど、カイジさんが心労で死んじまいかねないので、早々に解放してやるつもりだった。

 走り出して早々、カイジさんはシートに背中もつけず前のめりになって、血走った目でオレの運転にケチをつけ始める。
 やれ「車間距離が短すぎる」だの、やれ「スピードをもっと落とせ」だの、やれ「ウインカーを出すのが遅い」だの、運転経験があるかどうかも怪しいくせに、ごちゃごちゃうるさい。
 わざと大きな音をたてて舌打ちをし、オレはカイジさんを見る。
「……あのさ。ちょっと静かにしてくれる? あんまり隣で煩くされると、集中が切れて、余計に事故りそうになる」
「わーーっ!! わかった! わかったから前見ろ前っ……!!」
 逼迫したような声の言う通りに前を向いてやると、カイジさんは口から魂の抜けていくようなため息をつき、そのままシートにずるずると沈んでいった。


 車内がしんと静まったので、カーラジオをつける。
 流行りの曲をひたすら垂れ流しているチャンネルがあったので、そこに合わせてボリュームを少し上げる。


 走り始めの頃こそ、そわそわと落ち着かなさげだったカイジさんも、ものの十分ほどでオレの運転に慣れたようで、ガチガチだった体を緩め、大人しくシートに凭れて窓の外を眺めていた。
 深夜だし、別段面白い景色が見られるわけでもないだろうに、窓に反射して映し出されるカイジさんはやたら熱心な顔つきで、等間隔に並んだ白っぽい街灯の灯りが流れていくのを眺めていた。

 まるで子どもか、犬のようだった。
 車に乗ること自体、久しぶりなのかもしれない。









 やがて、大きめの橋にさしかかると、一気に辺りが明るくなった。
 窓に映るカイジさんの顔の中を、こまごました電飾の灯りが流れていく。
 橋の継ぎ目の上を車が通過するたび、ガタンと体が揺れた。

「もう、三月なんだな」
 いきなり、カイジさんがぽつりとそんなことを呟いた。
 横目でちらりとカイジさんの方を見ると、ガラス越しにオレと目を合わせて、続ける。
「この橋の電飾、季節によって色が変わるんだ。十二月から二月の間は、白。そして三月から、この色になる」
 この色、と言いながら、カイジさんは窓の外を指さす。
 そこには、タンポポのような黄色い灯りが溢れていた。
「今年はさみぃから、春なんてまだまだ先だって思ってたけど、もうすぐそこまで迫ってきてるんだな……」
 ぼやぼやとした口調で、カイジさんはそんなことを呟いた。
「誰に聞いたの?」
「えっ?」
 低い声で問うと、カイジさんは直接オレを見る。
「誰に聞いたの、今の話」
 車を持っていないカイジさんが、家からそう近いわけでもないこの橋の、オレも知らなかった雑学を知っているってことは、すなわち、誰かから教えられたのに違いないと踏んだ。
 しかも、この橋を実際に車で通過するときに教えられた可能性が高い。
 今のオレみたいに、カイジさんを隣に乗せてこの橋を渡った奴が、過去にいたかもしれないということだ。

 ささくれ立つオレの心などあずかり知らぬように、カイジさんはふたたび窓の外に目線を移し、
「さぁ……誰だったかな……」
 ぼんやりした口調で、そう呟いた。
 やはり、誰かに教えられたのだと確信して、男か女かもわからないその相手を思い、心にうっすら陰がさす。
「窓、開けていいか?」
 相変わらず暢気そうな顔で窓ガラスにはりつきながら、カイジさんが訊いてくる。
「いいよ」
 と答えると、カイジさんは窓を下げた。
 三月とはいえ、まだまだつめたい夜風が車の中に吹き込んでくる。
 ラジオから流れる女性歌手の歌声が世闇に甘く溶けてゆき、オレはカイジさんの、風に弄ばれる長い髪を時々、横目で追った。








 検問に引っかかることも、事故ることもなく、車は順調に夜道をひた走り、ものの三十分ほどで恙無く波止場に到着した。
 海を真正面に車を止め、エンジンを切ると、カイジさんがほっとしたようにため息をつく。
 寄せては返す波の音が、わずかに開いたままの窓から入ってくる。

「案外、マトモだったろ? 運転」
 オレの問いに頷きかけ、カイジさんは慌てて首を横に振る。
「……だからって、無免許運転が許されるわけじゃねえ」
 険しい表情をつくるカイジさんになんだか白けさせられて、「ああ、そう」とだけ答え、シートベルトを外した。

 一方のカイジさんは、シートベルトも外さないまま、きょろきょろともの珍しげに辺りを見渡していた。
 フロントガラスの向こうには、果てしなく大きく、底なしに真っ黒な水溜りが広がっている。
 水面を照らし出すのは、遠くの方にぽつぽつと光るわずかな漁火と、対岸の街灯りに、瞬く星と月だけだ。
 目を凝らせば、遠くの街灯りの中に、さっき渡ってきた橋の黄色い灯りを見て取れる。
 窓から侵入してくる磯臭い香りが、鼻腔を刺す。

「オレたち以外、誰もいねえな……当たり前か」
 独りごちるカイジさんに、ふと、邪気が掻き立てられる。
「そりゃあ、好都合だ……」
 低く呟いて、素早くカイジさんの方へ身を乗り出す。
 助手席のシートをやさしく倒し、体の上に覆い被さると、完全に油断しきっていたカイジさんが目を見開いた。
「ぅわっ……! まっ待て……! アカギっ……!」
 慌てて逃げようとするが、つけっ放しのシートベルトに邪魔され、じたばたと間抜けにもがくことしかできないようだった。
 暴れる足の上に乗って動けなくし、体を守ろうとする腕を阻みながら、パーカーの柔らかい布地をたくし上げると、引き締まった腹筋が露になる。
「……っかやろ………! こんな、とこでっ……!」
 眦を吊り上げるカイジさんに、
「窓も開いてるし、あんまり大きい声出すと……」
 声を潜めて言ってやると、慌てて言葉を飲み込み、代わりにオレを睨みつけてくる。

 目を細めてそれに答えてやり、身を屈めて脇腹の辺りに口をつけると、カイジさんの体がびくんと強ばった。
 尖らせた舌で腹筋をなぞれば、新しい場所にたどり着くたび、面白いほど敏感に反応する。
 薄暗い車内で、オレの舌が這ったあとだけ、外からの僅かな光を反射しぬめぬめといやらしい光を放っていた。

 抵抗は、いつの間にか止んでいた。
 腕を掴んでいた手を離してやると、カイジさんは自分の顔を覆い隠してしまう。
「こんなの、絶対おかしい……間違ってる……」
 腕の下から聞こえてきたか細い声に、動きを止める。
「おかしい? 間違ってる? ……なにが?」
 我ながら、冷えきった声が出た。
 カイジさんの体は震えていて、それが寒さによるものではないってことは、聞くまでもなくわかった。
「お前はもっと、ちゃんとした女と……」
 カイジさんの言葉に、オレは声を上げて笑ってしまった。
 笑い声には嘲りの響きが多分に含まれていて、それを聞いたカイジさんは、さらに身を固くする。
「ちゃんとしてない男のあんたが、オレとこうなるのは間違ってるって?」
 返事はない。
 苛立ちを抑え、できる限り、険のない声音をつくって言ってやる。
「いいじゃねえか。ちゃんとした女には、ちゃんとした男がつくさ。オレには、あんたくらいがちょうどいいんだ」
 ここまで言っても、カイジさんは頑なに口を閉ざしている。

 カイジさんは、いつもこうだ。
 これだけ口説いても、まだ折れないのか。
 本当に、面倒臭い男だ。

「こういうのって、正しいとか間違ってるとかで計れるようなことじゃないと思うんだけと」
 暴れてやりたくなる衝動を我慢しながら、諭すように言っても、カイジさんからの反応はない。
 顔を隠すカイジさんの手指には、消そうとしても消えない傷跡がある。
 そんな傷を体に残しておいて、まだ正しいとか正しくないとかいうことにこだわっているなんて、お笑いぐさだ。
 こんな時ばかり、中途半端に常識人ぶりやがって。

 いや、本当はそうではないのかもしれない。
『正しさ』を盾にして、カイジさんは逃げているだけなのだ。
 オレと、自分自身の気持ちから。
 特定の誰かと親密になるのを、極端に忌避する男だから、きっとオレに添うのを怖がっているのだろう。
『オレのため』みたいな偽善めいた言い方してるけど、本当は自分が可愛いだけだろうが。
 他の、どうでもいいような人間には優しくして、いつもバカを見るくせに、オレの気持ちは無視して、こんなふうに踏みにじるなんて、あんたの方がよっぽどオレにひどい嫌がらせしてるよ。

 腹の底で煮えくり返る思いをぜんぶ、ぶつけてやりたいところだが、この人にそんなことをしても徒労に終わることはわかりきっている。
 深く深く息を吸い、声にして吐き出した。
「……あんたがその気じゃないんなら、仕方ねえ」
 この人の気持ちがないのに、無理やりコトに及んだとしても、虚しいだけだ。
 体を起こすと、ようやくカイジさんの腕がぴくりと動く。
 こわごわと様子をうかがう三白眼の黒目に、襲いかかってやりたくなるのを堪え、噛んで含めるように言ってやる。

「そこまであんたが大事にしたがってる『正しさ』を、しばらくの間はオレも、尊重してやってもいい」

 安心したようにカイジさんの体が緩んだのを見計らい、手首を強く掴んで腕を外させる。
 見開かれた目を間近で見ながら、聞き分けのない子どもにするようにゆっくりと、言って聞かせる。

「……だけど、オレもあまり気の長い質じゃないんでね。いつまでもそういう、つまらない事にこだわり続けられたら、いつかぶちギレてあんたのことを、あんたの信じてるものごと、滅茶苦茶にぶち壊しちまうかもしれない」

 暗がりでもわかるほど、カイジさんの顔が青ざめたのを確認してから、口端を上げる。

「それだけ、頭に入れておいてね」

 バカみたいにがくがくと頷くカイジさんの腕を解放し、倒れたシートを戻してやる。
 蒼白な顔で俯き、オレの方を見ようとしないカイジさんに、タバコを咥えながら命令してやる。
「すっかり冷えちまった。あったかい缶コーヒーでも買ってきてよ。自販機あっちにあるから」
 顎で方向を示してやると、カイジさんは大急ぎで車から降りようとし、つけたままになっていたシートベルトに阻まれて一瞬パニくったあと、真っ赤な顔でシートベルトを外し、転がり出るようにして車から降りた。

 よりにもよって、なんであんな男に惚れちまったんだろう。

 脱兎のごとく走り去ってゆく後ろ姿を見送りながら、オレは自分自身にほとほと、呆れた。






 カイジさんが買ってきた缶コーヒーを一本飲んで、結局車の外に一歩も出ないまま、オレは帰ることに決めた。
 ドライブそのものが目的だったので、べつにこの寒い中、車から降りて海を見ようという気にはなれなかった。
「帰る」と言った瞬間、今日いちばんの笑顔を見せるカイジさんを海に突き落としてやろうかと思ったが、やめておいた。

 エンジンをかけると、カイジさんが窓を上げる。
 機械音に紛れて、小さく「ごめん」という声が聞こえた気がしたけど、オレは聞こえないふりをして、車を発進させた。
 どさくさに紛れて謝るなんて卑怯な真似をする男を、そう簡単に許すわけにはいかない。
 今日みたいな嫌がらせを、しばらくは続けてやる。
 困り果てたカイジさんが、オレに降参するまで、ずっと続けてやる。




 行きよりもすこしだけ明るくなった来た道を、まっすぐに引き返す。
 音楽番組はもう終わっていて、ラジオでは女性アナウンサーが早朝のニュースを伝えていた。

 ハンドルを操りながら、ふと思いついて、カイジさんに聞いてみる。
「どうだった? 今日のドライブ」
 さまざまに罵る声が返ってくると思っていたが、助手席からの返事はない。

 隣を見ると、カイジさんはなんと、シートに深く沈み込み、大口を開けて寝こけていた。
 さすがに呆気に取られ、平和そのものの寝顔をまじまじと見てしまう。
 左手を伸ばして太腿を撫でさすってみても、カイジさんはすやすやと気持ちよさそうに眠ったままだ。

 行きはあんなに煩かったくせに、慣れるとすぐにこれか。
 こんな男がよくもまあ、正しさなんて語れたものだと心底呆れ、ついでに少し笑った。

 気を揉まなくても、この人はじきにオレのもとに落ちてくる。
 そんな予感が、胸の中に芽生えた。
 無免許運転の助手席でぐうすか寝られるほど素晴らしい順応性をもったこの人なら、『正しくない』恋にも、すぐに慣れきってしまうに違いない。

 上がる気分に合わせ、オレはアクセルを踏み込む。
 東の空は次第に白み始め、ラジオから流れるアナウンサーの爽やかな声が、朝の訪れを伝えていた。







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