幾星霜  しげカイ時代を経たアカカイ


「んっ?」

 春物の寝巻きを探して、引き出しを引っかき回していたカイジが、妙な声を上げた。
 奥の方からなにかを引きずり出し、両手で広げてじっと眺めたあと、座ったままくるりと振り返る。
「おい、しげるっ! 見ろよ、これっ……!」
 名前を呼ばれてアカギが顔を上げると、カイジが腕に抱えた皺くちゃの白い布を見せつけてくる。
「なに、それ……」
 目を眇めて言いかけたアカギだが、カイジが布を大きく広げたことでその正体がわかり、言葉を切った。

 それは、アカギにもカイジにも明らかに寸足らずな、白い開襟だった。
 四、五年ほど前、まだ中学生だった頃のアカギが着ていたものである。
 今更そんなもの、いったいどこから出てきたんだと、思わずまじまじ見てしまうアカギに、
「引き出しの奥に押し込まれてたんだ。懐かしいな……お前、こんなの着てた時代もあったっけ」
 カイジはそう言って、表情を綻ばせた。

 改めて、カイジの持つシャツをよく見てみると、真っ白な生地のあちこちに、大小さまざまな大きさの、赤茶っぽいシミがついている。
「血液のシミだから、洗っても落ちなかったんだろうな」
 アカギの目線を追い、カイジが言う。
 こんなに目立つシミがついてはもう着られないだろうし、捨てるつもりが、手違いで仕舞いこまれてしまい、今の今まで忘れ去られていたのだろう。
 眩しいくらい白い生地に落ちた不穏なシミを見ながら、カイジはしみじみと懐かしむように言葉を紡ぐ。
「お前ってほんと、可愛げのねえガキだったよなぁ。危ねえことばっかりしたがるし、止めても全然聞かねえし」
 カイジの言葉で、このシミをつけてカイジのもとを訪ねた時のことを、アカギもおぼろげに思い出す。

 例によって、暴力沙汰だった。
 発端は思い出せないが、一回り以上年嵩な連中とのイザコザで、大人数相手にかなりの大立ち回りを演じる羽目になった。
 なんとか全員のした頃には、体はもうボロボロだった。
 ほうほうの体でカイジの家に転がり込んだアカギを、カイジは泣きながらこっぴどく叱ったのだ。

 自分が怪我したわけでもないのに泣きべそをかく大人に、あの頃のアカギは多少なりとも戸惑い、「本当に大丈夫だから」と言葉をかけ続け、最終的にはなぜかアカギの方が泣いているカイジを慰めるような状態になってしまったのを覚えている。

 まだ幼かったとすら言える昔の自分に、だんだん還っていくようで、自然、アカギの表情が和らぐ。

 
 こういうことに限らず、あの頃はとかく、カイジによく叱られた。
 姿勢が悪い、だの、食べこぼしが多い、だの、ガキがタバコや酒なんてやるな、だの。

 普通の「世間」を知らないアカギに、カイジはいつも、なにかと口うるさかった。
 煩わしそうに聞き流していたが、アカギは、カイジに叱られるのが、実はそれほど嫌ではなかったのだ。
 他の人間とは違い、カイジに叱られるのは、どこかあま痒いような、くすぐったいような気分をアカギに与えた。

 あの頃は、それがなぜだかわからなかったけれど、今のアカギにならはっきりとわかる。
 好きだったからだ。
 好きな人から叱られるのは、決して悪い気分のすることではない。
 アカギはカイジに出会って、初めてそれを知ったのだ。

 白い布に視線を落とすカイジの瞳も柔らかい。
 きっと、アカギと同じ事を思い出しているのだろう。

 出会ってから五年以上が経つ。気まぐれなアカギは足繁くここへ通う時もあれば、ほとんど会わない日々もあって、平均すると大体ひと月に一、二度会うか会わないかの関係だが、それにも関わらず、ふたりとも、初めて会った頃のことをまるで昨日のことのような鮮明さで思い出せるのだった。


「ね……カイジさん。昔みたいに叱ってみてよ」
 ふと、思いついてアカギがねだってみると、カイジは顔をしかめる。
「えー……お前、オレに叱られたいの?」
「うん」
「なんかそれ、マゾっぽいぞ?」
「実は、そうだったりして」
「やめろよ。お前が言うと冗談に聞こえねえ」
 不味いものでも食わされたような顔をするカイジに、アカギは悪戯っぽく笑う。
「ね、早く」
 なぜだかすっかり乗り気で、忠実な犬のようにカイジの言葉をじっと待つアカギに、カイジは調子を狂わされる。

「あー……そうだな……」
 ぼそぼそと呟きながら、カイジはなぜかアカギの前にきちんと正座する。
 咳払いをひとつしてから、アカギの顔をまっすぐに見て、重々しく口を開く。

「……水道の水を出しっぱなしにするな」
「うん」
「……どこにでも靴下を脱ぎ散らかすな」
「うん」
 内容はものすごく下らないことだったし、酔っ払ったらカイジも同じ事をするのをよく知っていたが、アカギは笑い出しそうになるのをこらえ、素直に頷く。

「それから……」
 言いかけて 、カイジはふと口を噤んだ。
 アカギの目を静かに見る丸い瞳を、アカギもじっと見返す。

 暫くして、カイジは首を横に振った。
「いや……なんでもねえよ」
 なにかを諦め、吹っ切るような物言いだった。
 ほんのりと悲しげで、痛そうな微笑みに、アカギはカイジが言いたかったことがなんだったかを知る。

 それは、出来ない相談だった。
 どんなに叱られたとしても、アカギには自分の生き方を変えることなどできないのだ。

 アカギはカイジの、出会った頃よりもすこし年を重ねた顔を見つめる。
 ここ数年で、カイジはアカギにどんなに言いたくても『言うべきではない』ことを学習し、それを言わなくなった。
 その変化は、捉えようによってはひどく寂しいものだったが、アカギはそれに気づかぬふりをして、カイジを揶揄う。

「大人になったな、あんた」
「……お前は何様だよ?」

 カイジも憎々しげに切り返し、軽い調子のアカギに救われたかのように、湿っぽくなりかけた空気も一瞬で持ち直した。


 座ったまま、アカギはこころもちカイジの方へ体を傾け、内緒話をするように話しかける。
「なぁ……ガキの頃、いちばんあんたに叱られた場所ってさ、どこだかわかる?」
「場所? ……さぁ? 雀荘、とか?」
 質問の意図するところが掴めず、首を傾げるカイジに、アカギはさらに声を潜めた。

「ベッドの中、だよ」

 一瞬、固まったあと、さぁっと茹で上がるように赤くなるカイジを愉しそうに眺めながら、アカギは続ける。
「あの頃はさ、まだガキだったから、あんたに色々無茶して、怒らせたよね」
「そ……れは、今もそんな変わんねえじゃん……」
 真っ赤になった顔を隠すように俯き、もごもごと呟くカイジに、アカギは笑った。
「その反応……あんたこそ昔っから、ぜんぜん変わってないじゃない」
 すると、カイジは上目遣いでアカギを睨みつけてくる。
 その顔がアカギを焚きつけてやまないのだということは、何年たっても学習しないらしい。

 アカギはさらにカイジに近寄り、体と体をくっつけるようにして話す。
「なぁ……昔みたいにしてみてもいい? 中坊の頃みたいにさ」
 言ったそばから耳に口づけようとしてくるアカギを、カイジはくすぐったそうに避ける。
「よせよ。体力がもたねえ」
「やってみないと、わからないぜ?」
 ニヤリと笑い、アカギはカイジの腰に腕を回す。
「辛くなったら、昔みたいに叱ってくれればいい」
 甘みのある声音に、カイジは吹き出した。
「叱ったってお前、ぜんぜん聞かねえじゃん」
 笑われて、アカギも苦笑する。
 そういえば、そうだった。
 ずっと、昔から。

 憎まれ口を叩きながらも、カイジの表情はどこまでも柔らかく、それにつられてふたりを取り巻く空気までもが、ふわふわとやわっこくなってゆくようだった。

 カイジは手を伸ばし、アカギの頭を撫でる。
 アカギの中にいる少年の頃のアカギを、呼び起こすように。

 何年も前から変わらない手つき。
 こうして頭を撫でられるのが、子ども扱いされてるみたいで嫌だった時期もあったなと、大人しくカイジの手に撫でられながら、アカギは懐古した。

「オレも、大人になったのかな」
 アカギの独白に、カイジは片頬を吊り上げ、鼻で笑い飛ばす。
「お前はずっとクソガキのまんまだよ。オレにとってはな」

 どんなに年を重ねても、知名度が上がっても、手の届かないほど遠くへ行ってしまったとしても。


 カイジの言葉を聞き、アカギはそっと目を閉じる。
 その口許には、今まで誰ひとりとして見たことがないくらい、穏やかな笑みが刻まれていた。






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