悪魔
悪魔に名前を知られてはならない。
魂を奪われてしまうから。
思い込み、というものが、時として命取りになることがある。
オレは今まで生きてきて、『悪魔』とは漠然と真っ黒く、そして、異形のものだと思い込んでいた。
しかしオレの前に現れた悪魔は、真っ白で、ヒトのかたちをしていたのだ。
卓の上に叩きつけられた札束。灰皿に山盛りの吸い殻。
それらすべてが涙で見えない。ぼやける視界にうつる、対面の白い影。
やたら大きく見えるそれに、オレは力なく言葉を漏らす。
「悪魔……」
「悪魔、ね。よく言われるよ」
淡々とそういいながら、悪魔は散らばった牌を弄ぶ。
奴が、人々にそう呼ばれていることは知っていた。
ヒトの力では到底太刀打ちできないような強さを持ち、金に目の眩んだ人間の魂を奪っていく、悪魔のような男だと。
知っていながら、勝負に挑んだ。
『悪魔』というのは単なる比喩で、事前に写真で見た奴の姿は、当然ながら普通の人間だった。
人間と勝負をする以上、勝機は必ずどこかにある筈だと思ったから。
が、違った。奴の打ち回し、強運、豪胆さ、すべてが人知を越えていた。
オレは油断してしまったのだ。だって悪魔は黒いものだと思い込んでいたから。奴は人間の姿をしていたから。
白くても、人型をしていても、奴は本物の悪魔だったのだ。
関わるべきではなかったのだ。
「死にたく……ない……」
そんな、往生際の悪い言葉が、気がつけば口をついて出ていた。体裁とか、そんなこと気にする余裕すらなかった。
この男が望むものは、金などではない。
互いの命を賭した勝負。一歩も退けない状況での、極限の闘い。
それこそが、この男が『悪魔』と呼ばれるもうひとつの理由なのだ。
オレの言葉に、男は整った眉をすこし持ち上げる。
「そうか……そういう約束だったね」
男は息をつくようにそう言うと、急に冷めた顔つきになった。
目線を斜め上に投げ、なにかを考えるような顔をしたあと、ぼそりと呟く。
「……気が変わった。どうも、あんたを死なせるのは気分が乗らない」
「てめえ、勝手なことを……!」
男の背後に控えていた黒服たちの表情がさっと変わる。焦りの混じった怒号を無視し、男はオレの顔を真正面から見て、言った。
「名前……」
「は……?」
「あんたの名前、知らねえんだ。教えてくれないか」
唾を飲もうとしたが、カラカラに乾ききった喉ではうまくいかなかった。
この男、なにを考えている?
男の意図が全く理解できず、深く混乱する。
だが針のように鋭く、それでいて静かな目に見られていると、まるで不思議な力に引っ張られるように、乾いた舌が勝手に動いて、自分の名前を紡いでいた。
「伊藤……カイジ……」
すると、男は酷薄そうな薄い唇を持ち上げ、ニヤリと笑った。
「カイジさんね」
確認するようにオレの名を呼ぶと、するりと立ち上がる。
薄暗い照明が作る深い陰影で、オレを見下ろす男の顔はなぜか、慈悲深く微笑んでいるように見えた。
「いずれ、また会いましょう」
男はそれだけ言って、出口へと向かっていく。
黒服の、諦め混じりの引き留める声を無視し、男は扉の向こうへと消えた。
悪魔に名前を知られてはならない。
魂を奪われてしまうから。
「兄ちゃん、今回はあいつの気紛れに救われたな……だが、次はないと思った方がいいぜ」
憎々しげにそんな言葉をかけられる。
だが、オレは救われたなんて思っていなかった。
『いずれ、また会いましょう』
その言葉が、頭から離れない。
あいつともう一度。
そのことを考えると、凍えそうなほど恐ろしいのに、心臓はドクドクと脈打ち、逆上せ上がったようにひどく興奮する。
『救われた』なんて。寧ろ逆だ。
オレはあの悪魔に、魂を奪われてしまったのかもしれなかった。
終
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