自覚・2



「待ちなよ、カイジさん」
 アカギはカイジの背中に呼び掛けるが、カイジは振り返らず、ネオンの溢れる街をどんどん歩いていく。
 アカギは歩調を速めてカイジに追いつき、その腕を強く引いて立ち止まらせた。
 これじゃあまるでさっきの女みたいだな、とアカギは自身に苦笑したが、向き直ったカイジの表情を見て、すぐに笑みを消した。

 カイジは肩で息をしながら、微かに目を潤ませていた。
 その表情に滲む確かな怒りに、アカギはカイジの目をまじまじと見る。

 今まで、見たことのない表情だった。
 キスを見せつけられたことに対する単純な怒りではなく、もっと静かで、深い怒気が感じられた。
 黙ったままその目と見つめあっていると、さっき、女とキスしながら視線を絡めた、あの時の感覚が、ゆっくりと甦ってくる。
 じわじわと膨らむカイジへの劣情に、アカギは僅か目を細めた。

 アカギの欲望を知らないカイジは、しばらく無言でアカギを睨んだあと、口を開く。
「お前、どうしたんだよ。さっきの、女の人……」
「……ああ、」
 思いがけない質問に、アカギは忘れかけていた女のことを思い出した。
「どうしたって、べつに。置いてきたけど」
「いいのかよ。……恋人、じゃねえの?」
 喉に引っ掛かったようなカイジの言葉に、アカギは思わず笑ってしまう。あんなヘドの出そうなシーンを見せつけられておきながら、気を使うカイジが滑稽だった。
「違うよ」
 アカギはカイジの耳許に顔を近づけ、茶化すように囁いた。
「ーーあんな女より、カイジさんの方がずっと面白い」
 それはアカギの、率直な気持ちだった。
 だからこそ、女を置き去りにしてカイジを追いかけたのだ。
 しかしそれを聞いた瞬間、カイジの顔に、さっと鮮やかな怒りの色が差す。
「……カイジさん?」
 カイジは乱暴にアカギの腕を振り払うと、再び背を向けて歩き出してしまう。

 アカギは不可解に思いつつも、カイジを追う。

 逃がすわけにはいかない。どうしても今夜、カイジを組み敷かなければ、収まりがつかない気がしていた。

 今の言葉のなにがそんなにカイジの怒りを買ったのだろうか? 女を引き合いに出したことか?

 アカギはカイジの気を引くため、その背中に言葉を投げる。

「どうしたのカイジさん、そんなに怒って。あんたさ、それじゃあまるで、

 ーーオレに、惚れちまってるみたいじゃない」

 アカギがそれを口にした瞬間、カイジの足がぴたりと止まる。

 それはアカギにとって、単なる軽口の延長だった。
 だから、「バカじゃねえの」とか、そういう言葉がすぐさま返ってくると思っていた。

 しかしアカギの予想を裏切り、カイジは勢いよく振り返ると、掴みかかるようにアカギのシャツの襟元に手をかけた。
 その腕から紙袋が落ち、ドサリと音をたてる。
 殴るつもりか、とアカギは咄嗟に身構えたが、カイジは掴んだ襟元を強く引き寄せると、アカギの唇に遮二無二唇を合わせた。
 ガチッ、と嫌な音がして歯と歯がぶつかり、ビリビリと脳が痺れる。
 口内が切れ、どちらのものともつかない血の味が、瞬く間に口中に広がる。ぎこちない舌が、アカギの舌に触れては唾液とともにそれを撹拌した。
 不快感に、アカギが顔をしかめてカイジを睨むと、カイジもしっかり目を開いてアカギを睨んでいた。

 口付けは、ものの十秒程でカイジの方から解かれた。
 肩で息をしながら、しばし無言で睨み合う。
 アカギは手の甲でぐい、と唇を拭うと、血の滲んだ唾液をぺっと吐き出した。
「……ずいぶん、熱烈じゃない」
 唇を歪めてアカギは皮肉る。
 だが、カイジは笑いも怒りもせず、ぼそりと呟いた。

「……お前なんか、死んじまえ」

 言葉の物騒さとは裏腹に、カイジは滅茶苦茶に傷ついたような顔をしていた。
 後悔と、諦念。
 その二つがない交ぜになった表情を、アカギは僅かな驚きとともに眺めていた。

 そうして見つめあったのは一瞬のことで、カイジはすぐさまアカギを振り切って歩き出し、そして二度と振り返らないまま、夜の町に消えた。
 アカギの足許には、ひしゃげた茶色の紙袋だけが残った。



 カイジの背中が見えなくなるまで立ち尽くしていたアカギは、暫くして、ちいさく呟いた。

「……弱ったな」

 カイジは、どうやら自分に惚れているらしい。
 今までまったく気がつかなかったが、さっきの態度を見ればそんなこと、火を見るより明らかだった。


 アカギは反芻してみる。
 あの宣戦布告のような、または自爆のようなキスと、その後の、ズタズタに傷ついたカイジの表情。
 それらはすっかり脳に焦げ付いてしまい、簡単に忘れられそうになかった。

「弱ったな」
 アカギはもう一度、ひとりごちる。
 しかし言葉とは裏腹に、その声はこれっぽっちも弱っているように響かず、アカギは今夜何度目かの苦笑を漏らした。

 倦んでいた心が少しずつ、満たされていくのをアカギは感じていた。ゆっくりと体を満たす感情がなんなのか、ということも、もう、わかっていた。

 アカギは背中を屈め、マルボロの覗く紙袋を拾い上げる。
 とりあえず、これを届けてやるところから、始めてみようか。







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