風邪 しげる視点 やりたい盛りなしげるの話
朝起きた瞬間から、あ、これはマズいな、という予感はあった。
のぼせたように頭がぼーっとして、思考がうまくまとまらない。
体は燃えるように熱いのに、ひどい悪寒で体が震える。
どう考えても、風邪だった。
最悪だ。今日は代打ちが入っているのに。
いや、代打ち自体はべつにどうだっていい。問題は、その後。
今日打つ雀荘は、カイジさんちの近くにある。
だから、勝負が終わったらカイジさんちで夕飯を食べて、そのまま泊まる約束だった。
カイジさんのことだから、オレの体調が悪いと知ったら、ひどく心配してあれこれ世話を焼いて、無理矢理にでも寝かしつけようとするだろう。
そうすると、カイジさんとできなくなる。
それが嫌だった。
こんな風邪なんかで、カイジさんとできなくなるのが嫌だった。
カイジさんとするのが、オレはとても好きだ。
セックスなんて単なる処理だと思っていたのに、惚れた相手とするそれはぜんぜん、違った。
初めてカイジさんとしたときは、セックスとはこんなに気持ちがいいものだったのかと、目から鱗が落ちた。
それから、カイジさんに会うときはほぼ毎回するようになったけど、何度してもぜんぜん、飽きなくて、むしろ足りないくらいだった。
今までそういうことにほとんど無関心で、おろそかにしていた分を、急激に取り戻そうとしているみたいに、体はいつもカイジさんに飢え、欲していた。
まるでサルみたいだ、と思いながら、本能に逆らわずにカイジさんを貪った。
すこし不調だからといって、この強すぎる欲求がなくなるはずもない。
そんなわけだから、今日カイジさんとできないのは、困るのだ。
だから、カイジさんには悪いけど、隠し通すことに決めた。
風邪をうつしちまって、あとでこっぴとく叱られるかもしれないけど、その時はその時だ。
お詫びと言って、手篤く、手篤く看病してあげよう。
ぼーっとした頭で打って、ぼーっとしたまま勝った。
相手の泣きわめく声が頭にガンガン響いて、オレに代打ちさせたヤクザがしきりに話しかけてくるのをおざなりにいなして、ぐしゃぐしゃに丸めた金をポケットに突っ込んで、のろのろとその場をあとにした。
ひたすらカイジさんのことを考えながら歩く。
今日はどんな体位でしようか、とか。ひさしぶりだから悦んでくれるかな、とか。
ぼんやりする頭で、そういうことばかり考えていた。
昔から、表情の変化に乏しくて、具合が悪かったり怪我をしたりしていても、誰にも気付かれたことがなかった。
だから、カイジさんにも、絶対にばれない自信があった。
それなのに。
「しげる、お前、熱あんだろ」
開口一番、カイジさんがそんなことを言うから、オレは全身から空気が抜けたようにへなへなになってしまいそうになった。
失望でため息が出そうになるのをぐっと飲み込んで、何食わぬ顔で答える。
「ないよ、熱なんか」
「嘘つけ」
「本当だって」
「そんな顔して、なに言ってんだ」
そんな顔って、どんな顔だ。
カイジさんが「寒いだろ。早く上がれよ」と言ったので、言われるまま部屋に上がった。
すぐに手洗いを借りて、鏡をのぞき込む。
そこに映っているのはいつもとなにも変わらない、自分の顔だった。
頬が火照っているとか、変に青白いとか、唇が真紫だとか、そういうことは一切ない。
表情にだって、苦しそうなところはまったくない。
こんなにいつも通りなのに、なんで。
仕切り直すように顔を引き締めると、手洗いを出た。
部屋に戻る途中、台所から、醤油と味噌の香ばしい匂いが漂ってくるのに気がついた。
コンロに置かれた鍋の中には、オレのために作られた夕飯が入っているのだろう。
いつもなら食欲をそそられるその匂いだが、今はすこしも心が動かなかった。
カイジさんは乱れた布団を整えているところだった。
いつもなら、どうせぐちゃぐちゃになるのだからと、まったく頓着していないのに。
案の定、オレを寝かしつけるつもりなのだ。
そうはいくかと、足音を忍ばせて背後から近寄り、腹の前に腕を回してカイジさんを抱きしめる。
「カイジさん」
「んー?」
カイジさんはオレに見向きもせず、薄い掛け布団をバサバサさせて空気を含ませている。
相手にされてないみたいでカチンときたので、わざと大声で言ってやった。
「しようよ」
「何を?」
「セックス」
殊更声を張り上げると、カイジさんは掛け布団を毛布の上にふわりと置いて、オレに向き直った。
そして、額にかかる髪をよけつつ、額に掌を当ててくる。
あえて、逃げたりはしなかった。熱があることは確実にバレてしまうだろうけど、もうこうなった以上、開き直って堂々としてやる。
「やっぱり、熱あんじゃねえか」
カイジさんはため息をつく。
「ねえカイジさん、セックス」
「馬鹿言ってないで、布団入れ」
ぴしゃりと言い放たれて、苛立ちが募った。
「なんで。だってオレ、どこもおかしくないでしょう」
顔色だって、話し方だって、なにもかもいつも通りに振る舞えているはずなのに。
「お前がそういうこと言っちまってること自体、もうおかしいんだよ」
くっくっと、カイジさんは可笑しそうに笑う。
ムキになっているのを見透かされているような気がして、もともと熱を持っていた頬がさらにカッと熱くなった。
「わかった、うつされるのがヤなんでしょ。それなら、初めっから部屋にあげなきゃいいのに」
めちゃくちゃなことを、皮肉めいた口調で吐き捨てても、
「うつされるのはべつに構わねえけど、お前に無理させんのが嫌なんだよ」
答えるカイジさんの声は憎たらしいほど凪いでいる。
「べつに、無理なんかじゃない。なんで決めつけるの」
嘘だった。ついさっきまでは確かに余裕があったのに、頭痛がどんどんひどくなってきていて、本当は喋るのも辛い。
意固地になってるな、と頭ではわかっているのに、どうしても噛みつくのをやめられない。
なにもかも、カイジさんが悪い。こんなときばっかり大人ぶるから。
その分、オレはどんどんみじめなガキっぽくなってしまう。
一方的な恨みつらみを込めて睨みつけてやったけど、カイジさんはただ平然と、オレを見返してくる。
ひたすらまっすぐで、揺るぎない目。
カイジさんがこういう目をするときは、もう梃子でもその意志を動かすことができないのだ。
いつもフラフラ頼りないくせに。どうして今、そんな目をするんだよ。
心の中にどろどろした怒りが渦巻いて、そのせいで熱が上がっていく。
負けじとカイジさんを睨んでいたけれど、急にくらくらと目眩がして、危うくその場にうずくまりそうになるのを、脚を踏ん張ってどうにか堪えた。
寒くて寒くて、体の震えが止まらない。
強がっていられるレベルなど、とうに越えていた。
オレはゆっくり目を閉じて、気持ちを落ち着かせるように長く息を吐いた。
「……わかったよ」
降伏するのは死ぬほど悔しかったけど、こんな状態で意地になっててぶっ倒れでもしたら、それこそ目も当てられない。
目を開けると、カイジさんは相変わらずオレを見ていたけど、その表情はどことなくほっとしているようだった。
冷たい布団に潜り込むと、緊張が緩んだのか、今までなかった吐き気やら関節の痛みやらが、どっと襲いかかってきた。
「大丈夫か?」
ベッドの傍らに膝をついて、心配そうな顔でオレの顔をのぞき込んでくるカイジさんに、この期に及んでまだ負けを認めたくない心がささくれ立つ。
「カイジさんさ、本当は寂しいでしょ。オレとできなくて」
淫乱だもんね、あんた。
完全に負け犬の遠吠えだったけど、どうしてもブレーキがきかなかった。
馬鹿にするような口調に、カイジさんはすこしだけ目を見開いたけど、黙っている。
何だよ。言いたいことがあるなら言えばいいのに。大人ぶってないで、本気で怒ればいいのに。
頭が割れるように痛い。目の前が霞む。
なにもかもが腹立たしくて、唯一思い通りに動く口がどんどんエスカレートしていく。
「やっぱり、図星なんでしょ。あんたは変態だからさ。寂しくて死んじまうんじゃねえの? こんな男のガキに突っ込まれて、ーーッ!?」
いきなり、カイジさんがなだれ落ちるようにオレの顔に顔を近づけてきて、
「ん」
キスされた。
カイジさんからキスされたことなんて、ほとんどなかった。
それも啄むなんて生やさしい行程はすっ飛ばして、最初から、オレの口に舌をねじ込んできた。
「は、」
舌を絡め取り、吸い上げ、貪るようながむしゃらなキス。
あまりに突然のことで、それに応える余裕なんてないオレの、火傷しそうに熱い口内を余すところなく嘗め尽くそうとするような、激しいキスだった。
「……っ、」
ときどき歯が当たって、痛む頭にガンガン響いた。
息が苦しくなって呻いても、カイジさんはオレを許さない。
伏せた睫の下の瞳と目があって、心臓が引き絞られるような気持ちになる。
まるで獣だった。ひたすら自分の欲求を満たそうとする、黒い獣の目だった。
唇を離したあとも、カイジさんは名残惜しげにオレの舌に舌を絡めてから、ようやく離れていった。
舌と舌が透明な糸で繋がっているのを見ながら、みっともないほど乱れた息を整える。
オレの額に自分の額を、こつん、と押し当てて、カイジさんはオレの顔を真面目な顔で見た。
「……寂しいよ。お前とできなくて、寂しい」
キスの余韻で掠れた低い声が、こんなにも体調が悪いにも関わらず、オレの性欲を呼び起こそうとする。
もう一回キスしたいと思ったけど、カイジさんはすっと体を起こして、さっきと同じようにオレの顔を見下ろした。
「だから、お前はとっとと寝て、早く治せ。オレのこと、……、満足させてくれるんだろ?」
最後の台詞を言うのはさすがに抵抗があったのか、カイジさんはすこしだけ赤くなっていた。
それを誤魔化すように、頭を撫でられる。
熱が上がったような気がした。
不意打ちなんて、卑怯だ。
普段はぜったいにしないクセに、こんな。
こんなキスなんかしやがって。
「……うつっちまうよ、風邪」
声の震えを抑えて言うと、カイジさんはおおらかに笑ってみせる。
「構わねえって言ったろ」
なんだよそれ。
ずるい。
カイジさんのくせに。
悔しくて悔しくて、今すぐに布団を頭から引っ被ってしまいたくなる。
「うち今、なんもねえからさ。薬とか飲みもんとか買ってくる」
カイジさんはオレの心境なんて露ほども知らないように、オレの頭を撫でるのをやめて立ち上がる。
「なんか、欲しいもんあるか?」
逆光で真っ黒なカイジさんの顔を見上げながら、
(ここにいてよ)
なんて口走りそうになるのを、唇を噛んで堪えた。
代わりに、カイジさんの目にせいぜい嫌らしく映るように、下品な笑みを作って、言う。
「さっき言ったこと、忘れないでね。治ったら、ものすごいことしてあげるから」
「……期待してるよ」
カイジさんの口許がひきつったのを見て、すこしだけ溜飲が下がって、オレは喉を鳴らして笑う。
目を閉じると、ひどい睡魔が堰を切ったように押し寄せてきた。
抑えられた足音が遠ざかっていくにつれ、オレの意識も穏やかに遠のいていく。
ふと、コンロの上にかけられていた鍋の中身が気になった。
今日の夕飯はなんだったのだろう。カイジさんが、オレのために作ってくれた夕飯。
それが食べられなかったことをすこしだけ、残念に思った。
そして、玄関の扉の閉まる音とほぼ同時に意識は途絶え、オレは這い上がれないほど深い眠りに、どっぷりと落ちていった。
終
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