兎の寝床
「眠い」の後日談







「……ひさしぶり」

 カイジがノックされたドアを開けると、そこに立っていたアカギが、ぶっきらぼうにそう挨拶した。
 珍しいことに、いつもはくっきりと青白い白目が、真っ赤に充血している。

「なに、お前、寝てねえの?」
 カイジが問うと、アカギは黙ったまま頷く。
 カイジは驚いた。
 本当に珍しいことだったからだ。

 アカギは非常に寝つきがよく、どんな環境でもすぐに眠ることができるらしい。
 らしい、というのは、本人がそう言っているのを聞いたことがあるからだが、夏暑く、冬寒く、快適とは言い難い自分のうちの煎餅布団でも毎回ぐっすりなため、カイジはその言葉が嘘ではないと確信している。

 そのアカギが、寝不足だという。


「なにかあったのか?」
「……いろいろと」

 カイジの問いかけに、それだけ答えて黙るアカギはやはりものすごく不機嫌そうだ。

 白いし、目が赤いし、静かだし。
 ウサギみてえ、と思いながら、カイジはとりあえずアカギを部屋に上げた。




 
「なんだこりゃ……ひでえな」
「うるせえよ」
 乱れに乱れたベッドに顔をしかめるアカギに言い返し、カイジは申し訳程度に布団を整える。
 枕を置いて、アカギの顔を見て言った。
「腹は減ってねえか?」
「食ってきた」
「そうか……じゃあ、とりあえず寝てろ」
 そう言い置いて、部屋から出ていこうとすると、
「どこ行くの」
 すかさずアカギの声がかかって、カイジは足を止めた。
「どこって……洗い物の続きするだけだけど」
 訝しげな顔で自分を見るカイジに、アカギは口を開いたが、すこし躊躇うような間をおいたあと、
「……そう」
 結局それだけ言って、また黙った。

 いつもと様子の違うアカギに内心首を傾げながら、カイジは部屋をあとにした。
 
 
 
 
 
(いろいろ、か)
 夕飯を食べた食器を洗いながら、カイジはアカギが語らなかった寝不足の理由について思いを馳せる。
 常に誰かの恨みを買っているような奴だから、今回の寝不足も、きっとそれ絡みのことが原因なのだろう。
 誰かに命を狙われているとか。あるいはその逆で、雇い主に気に入られてしつこくストーカーされているという可能性もある。
 なんにせよ、あのアカギを寝不足にまで追い込むような相手なのだから、相当ねちっこい輩であることは間違いないだろう。
 
 それにしても、アカギも言った通り、ずいぶんとひさしぶりに会う気がする。
 何か月ぶりだろうか。カイジは頭の中で指折り数える。
 
 たしか最後に会ったときも、アカギはひどく眠そうだった。
 なにもいかがわしいことをしないまま寝落ちした翌朝、アカギはちょうど今日みたいなひどい仏頂面で、『しばらくここには来ない』と言ったのだ。
 それはカイジに対してというよりも、まるで自分に言い聞かせているような口調で、そういえばあのときもなんだか様子がおかしかったことを、カイジは思い出した。
 疲れているのだろうか。
 
(明日は、なにか元気の出そうなものでも作ってやろうかな……)

 そんなことを考えながら、次の洗い物を取り出すため、洗い桶に手を突っ込む。

 すると後ろからべつの両手がのびてきて、洗い桶の中に、とぷん、と沈み込み、水の中でカイジの両手に重なって、そのままきゅっと握り込んできた。
 洗い桶に目を落としたまま、一度、瞬きしてから、カイジは首を捻って、自分の背中に密着して立っているアカギの顔を見る。
 カイジの肩に顎を置いて、カイジの目を間近で見返しながら、アカギは一言、

「眠い」

 そう、ぼそりと呟いた。
「え……寝れば?」
 怪訝そうに眉を寄せるカイジに、アカギはますますむっつりした顔になって、軽く舌打ちする。
「……枕がないと、眠れねえ」
「は? まくら?」
 問い返すカイジの右手を水から引きずり出すと、アカギは濡れたままのその手をぐいぐい引っ張ってベッドへ向かう。
「え? は? ちょ、アカギ……?」
 性急すぎる行動に足を縺れさせながら、カイジは焦った声でアカギを呼ぶが、アカギは返事をしないままずんずん歩いていく。
 そしてベッドにたどり着くと、その上に乗り上げてカイジを見上げた。
 
「……」
 
 掴まれたままの右手を、促すように緩く引かれ、カイジは戸惑う。
 
 これは……一体なんなんだ?
 
 混乱するカイジだったが、真っ赤な目で睨め上げるように自分を見るアカギの表情が、どんどん険しいものに変わっていくので、おっかなびっくりベッドに上る。
 すると、アカギはさっきと同じようにカイジを後ろから抱きこみ、カイジの体もろとも布団に倒れこんだ。
「……あの、アカギ、さん?」
 思わず他人行儀な口調になるカイジの背中に、アカギがぺったりと体をくっつけた、そのわずか三秒後。
 カイジの耳に、規則的な寝息が聞こえてきた。
「……」
 アカギの腕の中で、カイジはカチコチに身を固くする。
 
 本当にこれは……一体なんなんだ?
 夢でもみているのだろうか。
 
 腹の前に回された筋肉質な腕が、がっちり体を固定しているため、起き上がることは叶わない。
 
 カイジは思った。
 これじゃあ、まるで。
 
『枕がないと、眠れねえ』
(枕って……オレのことかよ!?)


 さっきアカギが言っていたことを思い出し、カイジは一気に脱力する。
 よくよく見ると本物の枕は、ふたりの頭より高い位置に無造作に転がされていた。


 腕の中でゆっくり、ゆっくりと身動きして、カイジはどうにかアカギに向き直る。
 すうすうと浅い寝息を繰り返すアカギの眉間には、くっきりと深い縦皺が刻まれている。
 眠っていてもなお、不機嫌極まりないといったその顔に、カイジはぷっと吹き出して、それから慌てて口を噤む。
 
(つくづく、変なやつだよなあ)
 
 右手の人指し指と中指で、そっと眉間の皺を伸ばしてやると、アカギは低く唸って、さらにきつく眉根を寄せる。
 その様子があまりにも猛獣めいていて、よりにもよってこの男を『ウサギみてえ』なんて思っていたことが可笑しくなって、カイジはさらにこみ上げてくる笑いをこらえる。
 
 ウサギの寝床のように狭いベッドで、大きな抱き枕を抱きかかえて、窮屈そうに眠る大型の肉食獣。
 
 そのアンバランスな滑稽さが微笑ましくて、
「お疲れ」
 音を消した声でそう囁くと、愛玩動物を撫でるような手つきで、白い髪をふわりと撫でてやった。
 
 

 
 





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