どろどろ 拘束あり


「あ、」
 と、短く上がった声に、カイジは視線を隣に寝転ぶしげるの方へ向けた。
 しげるはカイジと目があうと、ほんのわずか、唇を撓めた。
 笑った、とも言えないような、微妙な表情の変化に思わず目を凝らすカイジの目の前に、つき出すようにしてしげるは右手を翳す。
「跡になってる」
 見て、と言われて翳された手を見ると、細い人差し指の第一関節と第二関節の、ちょうど真ん中あたりをぐるりと囲むようにして、赤い跡がついていた。
 歪なキリトリ線のようなそれの正体は、先程の交合のとき、しげるが戯れにカイジの口に指を突っ込み、カイジがそれに強く噛みついてできた傷だった。

 しげるは、まるで女性が宝石の填まった指輪でも眺めるかのような熱心さで、それをじっと見つめていた。
 カイジはその傷越しに、しげるの顔を睨む。
 親の仇でも見るようなその視線に、しげるはやわらかく目を細め、傷跡から目線を外してようやくカイジを見た。
「これ。消えなきゃいいのに、ね」
「ね、って、お前な……」
 カイジは口をつぐみ、言葉の代わりにため息を漏らす。
 ものを言いかけてやめる、ということが、このところのカイジには極端に多くなった。諦めたように目を伏せる癖も、最近頻繁に見られるようになったが、以前はなかったものだ。
 憂いを含んだ表情を見ながら、しげるは言葉を重ねる。
「だってカイジさんがオレにくれる、数少ないもののひとつでしょう」
 カイジは目を伏せたまま、呆れたように鼻で笑う。
「こんなことをしておいて、よく言う、」
 吐き捨てるような言葉に、今度はしげるが笑った。わかってないな、といった風に。
「無理矢理奪うんじゃなくて、カイジさんから進んでオレにくれるものなんて、こんな傷以外なにひとつないじゃない」
 だから大切なんだよ、と、しげるはカイジの噛んだ跡に笑んだかたちの唇を寄せる。
 気障に見えるその仕草も、なぜかしげるがやると嫌みにならないのだった。
 そんなしげるを、カイジは翳りのある目で眺める。
「だったら、やめろよ……こんなこと、もう、」
 カイジの言葉が終わらないうちに、しげるはカイジに覆い被さった。
 カイジの微かな身じろぎにあわせ、手首につけられた華奢な鎖が涼しい音をたてて鳴った。
 その鎖は、カイジの頭上で腕を拘束している手錠から延び、ベッドヘッドの柵に回されている。
 しげるはカイジの瞳を覗きこみ、内緒話をするように声を潜めて言う。
「やめないよ」
 これをやめてしまったら、あんたこんな傷跡すらくれなくなってしまうくせに。
 しげるはカイジに顔を近づけ、かさついた唇にそっと押し当てるように唇を重ねる。
 カイジは石のように身動きひとつせず、目を閉じてそれを受け入れた。
 交合の激しさとはうってかわって、穏やかな口付けだった。
 しげるが唇を離しても、カイジの瞼は下ろされたままだった。

 しげるがカイジを騙し討ちのようにして拘束し、体を繋げてから一週間が経とうとしている。

 おかしな話なのだが、なぜこんなことをするのか、一週間経った今でも、しげるにも自分の目的がよくわかっていなかった。
 単なる暇潰しなのかもしれないし、カイジと一緒にいたいという気持ちが知らず知らずのうちにこんなことをさせるほど大きくなっていたのかもしれないし、あるいはもっと重大な理由があるのかもしれない。
 カイジと肌を触れあわせる感触は生々しい悦びをしげるに与えるのに、まるで他人事のような感覚がどうしても拭えなかった。

 だが自分の心以上にしげるにとって不可解なのは、カイジに逃亡の意思が感じられないことだった。

 カイジを拘束する鎖は細い。本気で逃げようと思えば、こんな鎖など引きちぎって逃げられる筈だ。
 カイジはそれに気づかぬほど愚かではない。それを見越して、しげるはわざと細い鎖を選んだ。カイジがどういう行動に出るか、見てみたかったのだ。

 だがしげるの予想に反し、カイジは逃げようとするそぶりすら見せなかった。「やめろ」と口で言うだけで、あとは諦めきったような顔をして、しげるに捕らえられ続けているのだ。
 それに、手洗いや食事のときには手錠を外してやるのだから、逃げようと思えばいつだって逃げられるのだ。

 それゆえ、カイジは捕えられているふりをしている、といったほうが正しいのかもしれない。

 それはさながら、児戯にしょうがなくつきあってやる大人のようで、その態度はこの只事ではない状況からあまりにもかけ離れすぎていた。

 カイジのその行動は、間違いなく愛情からくるものである。しげるはカイジに愛されている。しげるもそれに気づいている、それが、親愛なのか恋愛なのか、そのどちらでもないのかはわからないけど。

 他人事のような意識のまま、しげるは考える。
 いったい、どういうつもりなのだろう。自分も、カイジも。
 この先、お互いどうなりたいのだろう。
 ずっとこのままでいたいのだろうか。それとも、逃げ出したいのだろうか。

 カイジと過ごしていると、しげるは鳩尾のあたりがどろどろしてくる。
 わからないことだらけだったが、確実に言えることは、暖かい泥の中にいるようなその感覚が、しげるにとって不思議と気分の悪いものではないということだった。

 だから、しばらくはこのままでいようと思ったのだ。
 カイジが逃げ出そうとしない限り、この奇妙な拘束ごっこは続くのだろう。
 このままどこまでいってしまうのだろうか。ずっとこのままでいるのだろうか。
 カイジとこの部屋でふたり。
 しげるはいつもほんの少しだけ、途方に暮れているような気分だった。

 泥濘で空回りするような思考の一切をやめ、しげるは死んだように閉ざされたままのカイジの瞼に唇を寄せる。
 そして、子どもが菓子をねだるような、甘い声で囁いた。
「ね……今度はもっと、強く噛んでね。死ぬまで残るくらいに」
 そして、またため息を溢そうとするカイジの唇を、自分のそれで塞いだ。





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