冬の夜 鼻歌と口笛の話


 最近、急に寒くなり、カイジの住む街にも先日、初雪が降った。
 冷たい雨や霰の日々が続き、今夜も空に星はない。
 家路を急ぐ人々が、パチンコに負けてとぼとぼと歩くカイジの隣を、足早に通り過ぎていった。


 師走も暮れになってくると、街も人々も心なしかそわそわし始める。それにつられて、カイジも日々、無意味に焦るような気持ちになった。
 今年も、もう終わろうとしている。
 振り返る必要もないほど、相変わらずなんの進展もない、しけた博奕とバイトだけの一年だった。そのくせ、歳を重ねるごとに確実に、一年が過ぎるのが早くなっている。
 ついたため息はあたたかい白に色づき、淡雪のように夜闇にすうっと溶けていく。それをカイジはぼんやりと眺めた。



 華やかな大通りから、細い路地に入ると、途端に周囲の音がなくなり、静寂が訪れた。
 街灯の黄色っぽい光だけでは照らしきれないほど、冬の夜は暗く、道行は心許ない。

 なんとなく、やるせないような気分のせいだろうか。ふいに、そうしたくなって、カイジは周りに人がいないのを見計らい、そっと、小さく鼻歌を歌ってみた。
 すこし前に流行った歌。一時期は街中やバイト先のコンビニで、しょっちゅう流れていた歌だ。
 特別好きな歌というわけでも、強い思い入れがあるわけでもなかった。
 単に今、いちばん最初に思い浮かんだ歌だったというだけだ。

 歌詞は中途半端にしか記憶していないけれど、タコができるほど耳にしたせいで、音程はほぼ正確にとることができる。
 明るいメロディを冷たい夜風に乗せていると、中途半端にもの悲しいような気分になった。
 だけど、ここで鼻歌をやめると、その気持ちに負けたようで、癪だ。
 カイジは半ば意固地になって、掠れて今にも途切れそうな鼻歌を、歌い続けた。
『自分はいったいなにと戦っているのだろう』というツッコミや、虚しさや、下らなさから、無理やり目を逸らして。




 夜、歌を歌うと鬼が来る。
 アパートの階段を上りきって、カイジはぴたりと歌をやめた。
 鬼はやってこなかったけれど、鬼より遙かにタチの悪いものが部屋の扉の前に、いた。

「それ、なんていう歌?」

 コートのポケットに手をつっこんで壁にもたれかかり、アカギがカイジの方を見てクスクスと笑っている。
 聞かれていた!
 顔が真っ赤になっていくのを自覚しながら、カイジは目を吊り上げる。
「お、お前っ……!! 居るなら居るって言えよっ……!」
 逆切れもいいところだが、アカギは益々楽しそうに目を細める。
「結構、うまいじゃない」
 そう言ってアカギは、唇を軽く尖らせる。

 澄んだ音が夜の空気を震わせながら、さっきまで歌っていた歌のメロディーをなぞり、カイジは驚いた。
 アカギが口笛を吹くなんて、思ってもみなかった。
『口笛を吹く』という行為は、カイジの抱くアカギのイメージとあまりにもかけ離れすぎていた。鳩が豆鉄砲を食らったような気分とは、まさにこのことをいうのだろう。

 面食らうカイジを余所に、アカギはごく短いサビの一フレーズだけを吹き終えると、何事もなかったかのようにカイジに話しかけた。

「カイジさん、今日泊まってもいい」
「え? ああ……」

 問いかけの形をとっているのに、もはや揺るがしがたい決定事項のように、アカギの言葉は響く。
 カイジははっとして頷き、それからまじまじとアカギを見た。

 平然としたアカギの態度に、さっきの口笛は空耳だったのだろうか、とすら思えてくる。
 最も、戸惑っているのはカイジだけなのだから、アカギがいつも通りなのは当たり前なのだが。

(それにしても)
 
「お前ほど口笛の似合わねえ男はいねぇな」
「あんたほど鼻歌の似合わねえ男はいないね」

 カイジが率直な感想を述べるのと、アカギがそうするのと、ほぼ同時だった。
 二人はなんとなくしんとして、お互いの顔を見詰めあう。
 妙な空気が流れた。

「まあ……上がれよ」

 ぼそぼそ言いながら、カイジはアパートの鍵を開ける。
 鍵を回すとき、わけもなく可笑しさがこみあげてきて、カイジは、ふっ、と笑みを零す。
 それから自分がなんだかずいぶん、久しぶりに笑ったことに気がついて、その事実にまたひとり、苦笑した。





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