わるいこと
しげるはいつも、突然カイジのもとを訪れる。それは大抵、深夜のことで、事前の連絡などもちろんない。
野良猫のようにひょっこり姿をあらわし、愛想も抑揚もない平たい声で
「カイジさん、今日泊めて」
などと言うのだ。
今日も、そうだった。
昼間晴れたせいで、芯から凍るような寒さの真夜中、しげるはカイジの部屋のドアをこつこつと叩いたのだ。
痩身を、学生らしい灰黒色のダッフルコートに包みこんでいる。目が冴えるような星空の下、象牙色の頬は、どんなに気温が下がっても少しの赤みもさしたりしない。
それが痛々しいほど寒そうで、カイジは慌ててしげるを部屋に入れてやった。
あんな姿を見せられたら、よほどの鬼畜でもない限り、誰だって部屋にあげてしまうだろう。
居間でコートを脱いでいるしげるを見ながら、カイジはぼんやりと考える。
しげるは来るときには頻繁にやって来るが、来ないときには何ヵ月も訪ねてこない。本人に直接聞いたわけではないが、カイジの部屋のほかにも、塒があるのは確かだと言えた。
しげるには、他にもいくつかこうして迎えてもらえる部屋があって、さっきみたいに扉が開けられるのを待っているのだろうか。
心にちいさな棘がたったような感覚が走ったが、カイジはそれに気づかぬふりをして、冷蔵庫の中身に思いを馳せた。給料日前でほとんど空だが、レトルトのカレーがあったはずだ。飯も炊いてある。
博奕に集中しすぎて食いっぱぐれるのか、しげるはたまに、こんな深夜でも飯をねだってくることがあるのだ。
「メシどうする」と、たずねようとしたカイジの声は、しかし声にならなかった。冷たい二本の腕が、急に抱きついてきたからだ。
夜の冷たい外気を体に纏いつかせたまま、しげるはしずかに、けれども強い意思を感じさせるやり方でカイジに迫ってくる。
正面から見るしげるの表情に、カイジははっとした。
いつも感じる、大人びてはいてもどことなく幼い雰囲気は完全に消えていた。
知らない大人の男のような顔だった。
鋭い目にはっきりとした欲望が滲んでいる。大きな博奕を打ったあとなのか、気が立っているのに違いなかった。
膝を割って、絡み、縺れさせようとしてくる足をやりすごしつつ、カイジはしげるの腕を掴む。
しげるの力は中学生とは思えないほど強いが、体格差があるため、カイジはなんとかしげるの動きを阻止することができた。
しげるから注がれる峻烈な視線を肌で感じ、まともにしげるの顔を見るのが躊躇われ、カイジはうつむいて掴んだしげるの腕に目を据える。
「今日もどうせ、危ない橋渡ってきたんだろ。……どこも怪我してねえな、」
熱心にしげるの腕を検するふりをしながら、ことさら、保護者ぶった口調に安堵を滲ませる。
このまま、世間話に持ち込んでうやむやにしようとする意図を感じとり、途端にしげるが不機嫌になるのが空気を通してカイジにも伝わってくる。
が、そ知らぬふりでしげるの指に目線をうつし、話を続ける。
「お前の指って、よく十本きれいに残ってるよなぁ」
命知らずの博奕ばっかり打つくせにさ、と言いながら、カイジはさりげなくしげるの手のひらを握りこみ、動かせないようにしてしまう。
断固、不穏な空気に流れさせようとしないカイジに、しげるはとうとう諦めたのか、長いため息をついた。
視線の重圧がフッと消え、ほっとしたカイジが顔を上げると、さっきの男の顔は消え、不機嫌そうにむくれる中学生がそこにいた。
「べつに……、こんな指も、命でさえ、惜しいと思ったことないのに」
仕方なく、といった風情で、しげるはカイジの話に合わせ、そんなことを言った。
少しだけ口を尖らせるようにしているのが、言葉の内容とは裏腹に、とても子どもっぽく見えて、カイジはやや目を細めた。
しげるは常に、命を賭すような博奕を望んでいる。 今日の博奕も、きっと満足のいくものでなかったに違いない、とカイジは思った。もて余した感情の捌け口を自分に求められるのには、閉口するけれど。
しげるのその、死を恐れない心こそが、他を寄せつけない強さの源となっている。死んでもいいという心が、皮肉なことにしげるを最も死から遠ざけている。
そんなわけで、しげるがこの先、賭場で命を散らす可能性は限りなく低いようにカイジには思われた。
「そんなこと言ってるけど、お前案外長生きするんじゃねえの」
来て早々迫られたことへの意趣返しのつもりでそう言うと、しげるは露骨に嫌そうな顔をする。
「どうして」
「世の中、悪い奴ほど長生きするようにできてるんだよ」
しげるはカイジをちらりと見て、ふうん、と呟いた。
「だったら、カイジさんはイイ人だから、すぐ死んじまうのかな」
今度はカイジが嫌な顔をする番だった。
「たしかにカイジさん、もう傷だらけだもんね」
しげるは涼しげな顔で言い、口笛でも吹くような調子で「オレ、カイジさんが死んじゃったら、いやだな」とつけ加えた。
「長生きするために、わるいこと、してみれば」
「……わるいことって、たとえばどんな、」
「目の前にいる中学生と寝てみるとか」
「……」
カイジは聞いたことを後悔した。
しげるは再び、さっきの、男の顔に戻っている。完全に油断していたカイジは、その目をまともに見てしまった。
逸らすことすら許されないような、意思の強い目だった。視線とは、こんなにもはっきりとした熱を持つものなのだということを思い知らされる心地がした。
考えてもみれば、しげるが一度はぐらかされたくらいで素直に引き下がるわけがない。こうして、より、直接的な誘い方に切り替えるチャンスを狙っていたのだ。
さっきまでのむくれた表情とのギャップに、カイジは混乱しそうになる。
もしかすると、やけに子どもっぽく見えたさっきの言動も、カイジの油断を招くためにわざとやっていたのかもしれない。
どこからどこまでがしげるの計算で、どこからどこまでがそうでないのか、カイジにはわからなかった。
しげるの作り出す空気に呑まれそうになりつつも、カイジはそれをぶち壊すためにあえて長閑な声で笑い飛ばした。
「ばーか。するかよ、そんなこと」
ついでに、しげるの頭をぽんぽんと叩いてやる。しげるがそういう扱いを、なによりも嫌うと知っていての行動だった。
カイジの目論みは当たり、しげるは急速に冷めた顔つきになる。
「……なにそれ」
しげるは忌々しげに頭上に乗せられたカイジの手のひらを掴み、下ろさせた。そのまま、じろりと睨んできたが、カイジは必死に空とぼけた風を取り繕う。
しげるはそんなカイジを責めるような目で見ていたが、やがて、白けきった顔で、大きなあくびをひとつした。
「カイジさんがつまらないことするから、眠くなった……」
寝る、と呟いて、しげるはカイジの手を握ったまま、ベッドへ歩いていく。
「おい、しげる」
焦ったようなカイジの声に、しげるは足を止め、鼻で笑った。
「一緒に眠るくらいなら、いいでしょう」
馬鹿にしたようにそう言って、有無を言わさずカイジの手を引き、カイジを座らせると自分はベッドに寝転んだ。
なにかしらよからぬことをしてくるだろうと身構えたカイジだったが、予想に反してしげるはすぐに寝息をたて始めた。
ただし、右手はしっかり握られたままなので、逃げようにも逃げられそうになかった。
羽のように軽く、柔らかな寝息を聞きながら、カイジはため息をつく。
しげるはカイジの態度に不満そうだが、カイジだって困惑しているのだ。
本当は、カイジだってしげると気持ちは一緒だ。
ただ、常識とかモラルとか、そういったことが常に頭をよぎり、なんとなくしげるとそうなることに抵抗を拭えない。
そのくせ、しげるが自分以外の大人の許も訪れているのだろうと勝手に予想して、顔も知らない相手に嫉妬のようなこともしてしまう。
我ながら、情けないほど煮え切らない態度だと自分自身に呆れた。
カイジはしげるの寝顔を見る。
鋭い瞳が瞼で隠されているためか、下手すると年齢よりも幼くすら見えた。さらりとした髪に触れたくなり、カイジは空いている左手を伸ばしかけたが、寸前で止めた。
「わるいこと」か。
あれはしげるなりの当てつけだったのだろう。
たしかに自分は今、しげるとそうなることが「わるいこと」だと感じている。
しかし、そう遠くない未来、それが「わるいこと」でなくなる日がくる予感がしていた。
ただ、それは今ではない。
それだけの話だ。それだけの。
カイジはひとつ、大あくびをした。
埒もないことをつらつら考えすぎたせいで、眠くなってきた。
しげるの隣にそっと寝転ぶ。幼子のように握られたままのしげるの手をやんわりと握り返すと、カイジは瞼を閉じた。
終
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