ひかり 神域視点 湿っぽい話
「なにか、いいことあったんですか?」
カイジに、そう訊かれた。
何軒目かの居酒屋の、カウンターで飲んでいるときだ。
急に訪ねてきた俺に、カイジは驚きつつも、ほんのり嬉しそうな顔をした。
『ちょっとな。野暮用があって、近くへ来たからよ。なぁカイジ、一杯つき合え』
そう誘って、雨の中街へ繰り出した。
が、実際は一杯どころではすまなかった。
カイジをあちこち連れ回して、一晩中飲み明かした。
前後不覚になるまで、ありとあらゆる酒を飲み尽くした。口下手なカイジに嫌がられながらも、無理矢理色んな話を聞きだして、からかっては笑ってやった。
こんな飲み方をするのは、ずいぶん久しぶりだった。
「あんたがこんなに……なんていうか、はしゃいでるのを見るの、初めてだから」
だから、なんかいいことあったのかなって。
カイジは少しだけ言いにくそうに、そう言った。
いいこと、か。呟きざま、グラスに残った酒を一気に呷る。
「あったさ。とびっきりの、いいことがな」
「なんですか? 教えて下さい」
カイジが身を乗り出してくる。
「秘密」
意地悪く笑ってやると、カイジはむっとした顔をする。
が、そこでしつこく食い下がってもからかわれるだけだと悟ったのか、俺の真似をするようにビールをぐっと飲み干した。
「いつか絶対、教えて下さいよ」
こいつ、俺のあしらいがうまくなったよなぁ。昔なら、バカにされるとわかっていながら、ここでムキにならずにいられなかったのに。
半分感心して、もう半分は残念に思いながら、俺は言ってやった。
「気が向いたらな」
その後はカイジの部屋のベッドへふたりでなだれこむようにして、夢も見ないほど深く深く眠った。
その朝、窓の桟の軋る音で目が覚めた。
寝返りをうち、音のする方に目を向けると、カイジが窓を開けているところだった。
カイジより寝坊するなんて、滅多にないことだった。
おまけに二日酔いで、頭が鈍く痛む。
やっぱりもう、若くねえってことか。弱くなったな、俺も。
陽光に目を眩ませながら、窓の前に立つカイジを眺める。
朝日に梳かれる黒髪。
生命力そのもののような、活き活きとした、若い体。
カイジのすべてが『生』を象っているようで、それが途方もなく、美しく見えた。
「……カイジ、お前、キレイだなぁ」
ぽつりと呟くと、カイジはぎょっとした顔で俺を見る。
「あんた、寝ぼけてんのか? 大丈夫かよ」
なにも知らないカイジは、顔に呆れの色を滲ませていた。
そう思うに至った事情が、俺にはちゃんとあるのだが。
しかし、ただニヤリと笑い、
「お前のこと、口説いてるんだよ」
そう言うと、カイジは目を丸くした。
それから、ふてくされたように呟く。
「なにを……バカなことを……」
その頬に、徐々に赤味がさしていくのを、果実が色づくのを見守るような気持ちで眺めた。
お前はなにも知らない。
昨日、俺が受けた診断も、密やかな決意も。
なにも知らぬまま、むくれたり照れたり笑ったり、自然体の親しみをこめて俺に接するカイジが、本当に愛しく、慈しむべきものに思えた。
このままがいい。このまま、なにも知らせないでおこう。最後まで、ずっと。
この顔が悲しみで歪むのは、見たくない。こいつへの、俺の最後のワガママだ。
こいつは俺を恨むだろうが、それでもかまわない。
ベッドから抜け出して、光の中の体を後ろから抱き寄せる。生きている、美しい、体。
「口説かれてくれねえのか? なぁ、カイジ」
耳許を擽るようにして囁くと、カイジはくすぐったそうに身を捩る。
「口説かれて……やらなくもない……」
和らいだ声音に口元が緩み、ありがとよ、と言って、その体をよりいっそうきつく抱き締めた。
終
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