溺れる者 魘されるカイジの話 しげる視点 愛なし

 こんなに苦しそうに眠る人を、初めて見た。


 明け方近く。魘されているカイジさんの、呻き声で目を覚ました。

 全身が、汗でぐっしょり濡れている。 
 色を失った唇が浅く開いて、うまく酸素を取り込めないのか、不規則でせわしない呼吸を繰り返している。

 まるで、溺れているようだと思った。

 濡れた前髪をかきあげてやり、喉頭に触れると、かなりの速さでどくどく脈打っていた。
 顔を近づけると、熱い息がかかる。

「……」

 なんとなく、魔が差した。
 浅く開いたそこに、自らの唇を合わせる。
 味も素っ気もない、乾ききった感触。その奥に隠された潤いを、求めるように舌を差し込む。
「っは、ん……」
 カイジさんが眉を寄せて呻く。やわらかい舌に舌が触れ、腹の底がじわりと熱くなる。
 衝動のまま、抉るように深く口付けると、目の前の瞼が動き、わずかに開いた。
 それがすぐに、零れそうなほど見開かれたかと思うと、すぐさま肩をぐいと押し戻される。
「何、しやがった……」
 乱れた呼吸の合間を縫うようにして、カイジさんは非難がましく言う。
 大きな目に睨め上げられ、オレも口を開いた。
「……人工呼吸」
 ふざけた答えに、カイジさんの表情がますます険しくなる。
「……どこの世界に、舌入れる人工呼吸があるんだよ……」
「カイジさんが、苦しそうだったから」
 しゃあしゃあと付け足すと、カイジさんは途端に口ごもる。
「溺れてるみたいだった」
「べつに……夢見がすこし、悪かっただけだ……」
 歯切れ悪く言って、少し青ざめた顔を、わざとらしくオレから背ける。
 どうやら、夢の内容については触れられたくないらしい。
 ぐったりと疲れきり、憂いを隠そうともしない横顔が、皮肉なほど艶めかしく見えた。

 カイジさんに出会って、初めて見た表情だった。
 この顔をもっと見たい、と思った。

 波打っているであろうカイジさんの心に、さらに小石を投げ込むように問いかける。 
「忘れたい?」
 カイジさんが鋭く息を飲み、弾かれたようにオレを見た。
「恐い夢だったんでしょう? 忘れさせてあげようか? 今だけでも」

 絡め捕るように柔らかい声音で囁くと、カイジさんの瞳が激しく揺らいだ。

 顔を歪ませたカイジさんの葛藤が、手に取るようにわかる。
 この誘いに乗るということは、ただ、悪夢を忘れるためだけに、オレを利用するということだ。
 カイジさんの性格を考えると、首を縦に振るはずがない。
 でも本当は、こんな誘いにでも縋りたい。それほど、憔悴しきっているのだ。
 溺れる者は藁をも掴む。きっとカイジさんの本心は、差し伸べられたオレの手を掴みたいのだ。

 カイジさんの弱味につけこむような、我ながら残酷なことをしていると思う。
 この誘いに乗ったとしても、お人好しのカイジさんはきっと後悔するだろう。
 だけど、苦しみ、惑いながらもオレの手を取るカイジさんを、見たいと思ってしまったから。
 
 怯えたような顔で視線をさまよわせるカイジさんを、安心させるように手を握ってやる。
 手のひらは冷たく湿っていた。

「カイジさんは、恐がりだね。大人なのに」

 冷たい指に唇をつけて、温もりをうつす。
 忘れるためだけにオレの手に縋ることは、なにも悪いことではないのだと、伝えるように。

 泣きそうな目と目があって、オレは笑う。
 相変わらず冷たい指が、ぴくり、と震えていた。





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