いてもたっても 過去拍手お礼


「カイジさん」

 低い声とともに、後ろから抱き締められてカイジは思わず息を止めた。
 背中に密着するアカギの体温。腹の前に回された腕を、振り払うでもなく、かといってその上に腕を重ねるというような大胆なこともできずに、カイジはただアカギの腕の中でその身を固くする。

 当然だが、アカギと出会う前のカイジは女としか付き合ったことがなく、しかもその経験さえ本当に乏しいものだった。
 だから、こんな風にされるのには慣れない。幾度かこうして抱き合った、今でも。

 そんなカイジを見透かしたような、アカギの笑い声がすぐ耳許で鼓膜を震わせ、微かな吐息が耳裏にかかる。

「くすぐってえよ、バカ」

 わざと不機嫌な声を出すカイジの鼻先を、ふわりと掠めた、匂い。
 カイジの全身が、無意識に緊張する。

 それはいつも、濃いタバコの匂いに隠れていて、こうして抱き合う関係になるまで、気がつかなかった、アカギの匂いだ。
 ほぼ無臭に近く、至近距離なら辛うじて感じられる程度のそれは、体臭というよりも自然の匂いに近い、不思議な匂いだった。
 例えるなら、雨が降る間際に吹く風の匂いのように、捉えどころがなくて、そのくせその匂いをかぐと、カイジは胸がざわついて、いてもたってもいられない気分になるのだ。

 そんなカイジをよそに、アカギはカイジをより強く抱き寄せる。
 首筋に顔を埋め、くぐもった声でぼそりと言った。

「カイジさんの匂いって、なんか、変」
「ぅえっ!?」

 カイジは飛び上がるほど驚き、真っ赤になった。
 慌てて逃げ出そうともがくカイジを易々と腕に閉じ込め、アカギは怪訝そうな顔で聞く。

「急にどうしたの、カイジさん」
「っだ、だってお前っ……! そんなこと言われたら離れるだろ、フツー」

 しどろもどろになるカイジに、アカギは、ああ、と声をあげる。

「べつに臭いって言ってるわけじゃなくてさ……なんか、落ち着かない気分になる」

 言葉にできない感覚を手探りで掴もうとするような、アカギの物言いにはっとして、カイジは真横にあるアカギの顔を見る。
 すこし、なにかを考えるような間をおいたあと、アカギはぽつりと言った。

「……雨、降る前みたいな感じ」

 なんだろうねこれ、と言って、アカギはカイジの肩に顎を乗せ、

「カイジさん、わかる?」

 平らな声で問いかけてくる。

 心臓がバクバクいう。
 手のひらはじっとりと湿ってくるのに、喉はひどく乾いて貼りついてしまい、カイジは一言も発することができない。
 いてもたってもいられない気分がどうにも疼いて止められず、カイジは衝動的にアカギに口づけた。

「いきなり、どうしたの」

 すこし、驚いたような顔をするアカギに、

「オレも、わ、わかんねぇ……っけど、なんか、こう、せずにはいられなかったっていうか……」

 おろおろと、カイジは答えた。
 自分自身の行動に戸惑いを隠せずにうつむくカイジを、アカギはじっと見詰める。

 妙な空気だった。
 ふわふわと浮わついたような、でも、嫌な空気ではなかった。
 次にアカギと目があったら、起こることは簡単に予想がついて、カイジはやがて名前を呼ばれるまで、不安と期待で破裂しそうな思いで、ひたすら床を見詰め続けていたのだった。






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