星に願いを


「銭湯行くけど、お前どうする?」

 カイジの家を訪ねるなりそう問われ、しげるは目を丸くした。
「風呂、壊れちまってさ」
 と、ぼやくカイジは、衣類の入った鞄を片手に提げていて、もう片方の手には部屋の鍵が握られている。
 まさに、出かける間際のタイミングだったらしい。
 
 しげるは瞬時に、面倒だな、と思った。
 代打ち帰りで疲れているのに、これからまた、歩いて銭湯へ行くのは、この上なく億劫に感じられた。
 しかし、しげるは一昨日から風呂に入れていない。
 代謝の良い若い体は、汚れるのも早い。この季節、二日風呂に入らないだけでも、不快感が募る。
 今日、カイジの部屋を訪れたのも、風呂目当てなところが多分にあった。
 面倒臭さと快適さを天秤にかけ、しげるは暫し考えたのち、
「……行く。着替え、貸して」
 とカイジに言った。


 カイジのアパートから十分ほど歩いたところに、その銭湯はあった。小さいが、外装は意外に新しい。
 暖簾を潜って中へ入ると、カイジはきょろきょろと辺りを見回し、券売機を見つけて慣れない手つきで入浴券を二枚買った。
 どうやら、ここへ来るのは初めてらしい。
「ほら」
 差し出された券を受け取りながら、しげるは訊いた。
「カイジさんってさ。銭湯、入れるの」
「ん?」
 カイジの短い返事に、しげるが
「左腕」
 と、やはり短く答えてやると、カイジはすぐにはっとした顔になり、左腕を触る。
「いやーーコレ、刺青じゃねえから。大丈夫だろ……」
「実際は刺青じゃなくても、普通の人なら、大多数が刺青だと思うんじゃないの」
 冷静なしげるにカイジは言葉をつまらせた後、
「……バレなきゃいいんだよ」
 と、強引な結論を導きだして、受付に向かった。
 しげるは肩をすくめ、その背中を追った。

 脱衣所のロッカーに、脱いだ服を入れていく。
 開襟を脱ぎ、ベルトに手をかけたところで、視線を感じてしげるはカイジを見た。
「……なに」
「い、いや、」
 じろりと睨まれ、カイジはたじろぎ、うろうろと視線をさ迷わせる。
 しげるはカイジがなにを見ているのか知っていた。
 白い肌に無数に散った、赤い切り傷や擦り傷。大きな青アザ。昨夜、絡んできた不良どもとやりあった跡だ。
 当然のごとく返り討ちにしたが、いかんせん体格差が大きく、しげるも多少の痛手を負った。
 こんなもの、しげるにとっては日常茶飯事で、なんてことなかった。
 だがカイジにとってはそうではないらしく、口を開きかけては、つぐみ、開きかけては、つぐんでいる。
 しげるはそんなカイジを横目にさっさと服を脱ぎ去り、カイジを置いてスタスタと浴室へ向かった。

 浴室に、人気はまばらだった。
 しげるの他には、腰の曲がった老人がふたり、隣り合った洗い場で体を洗っているだけだ。
 大きな声で交わされる会話が響き渡る中、しげるは軽く体を流し、タイル張りの浴槽に体を浸した。

 怪我をした部分を湯に浸けると沁み、しげるは顔をしかめる。
 肩まで浸かり、一息ついたところで、カラリとガラス戸が開いてカイジが浴室に入ってきた。
 カイジの姿を見て、しげるは思わず笑った。
 左腕の焼き印を右手で覆い隠し、背中を丸めるようにして、まるで罪人のように辺りを窺いながら洗い場へ向かう様が、可笑しかったのだ。
 客が老人ふたりだけだとわかると、すこしほっとした様子で体を流し始めるのも、しげるの笑いを誘った。

 浴槽へ歩いてきたカイジは、しげるの顔を見て眉を寄せた。
「……なんだよ」
「べつに?」
 と答えながらも、明らかに口角の上がっているしげるを、睨みながらカイジもまた湯に浸かった。

「はー……」
 しげるの隣でカイジは長く息を漏らす。
 暫し、ふたりして黙ったまま、湯に浸かる。
 湯はすこしぬるめで、この季節でも長く浸かっていられた。
 しげるはなんとなく目を閉じてみる。
 勝手に耳に入ってくる老人たちの会話を、聞くともなしに聞き流す。
 孫の結婚が決まっただとか、今年の老人会の旅行は京都だとか、会話の内容は至極とりとめもなく、平和だ。

 こんな風にゆっくりと、なにもせず時を過ごしたのはいつぶりだろうか。
 自ら好んで、身を切るような勝負の世界に身を置いているしげるにとって、本当の意味での休息は、無いに等しかった。

「傷、沁みないのか?」
 独り言のような声に目を開けると、カイジが、心配そうにしげるの顔を見つめている。
「……なんともないよ」
 しげるはそう呟いた。
 本当は、すこし沁みるのだ。だけど、カイジにそれを知られるのは、面白くない。
 カイジより先に浴槽に浸かったのも、顔が歪むのを見られたくなかったからだ。
 要するに、痩せ我慢しているのだ、子どものように。
 普段はそんなこと、絶対に考えないのに。
 らしくないな、と、しげるは感じていた。カイジといると、どうも、調子が狂う。
 しげるは黙ったまま、カイジを残して湯から上がった。





 洗いざらしの髪を夜風に靡かせながら、並んで土手をぶらぶら歩く。
 白いTシャツと七分丈のジーンズ姿のカイジは、「あっちー……」などとぼやいている。
 確かに暑い。今夜は熱帯夜なのだろう、としげるは思う。
 歩いている間に汗で服が湿ってくる。カイジから借りた服は、かなりぶかぶかして大きいのに、背中がべったりと汗でくっついてしまう。風呂に入った意味が、あまりないような気がした。

 叢のあちこちから、虫の声がしている。
 それを聞きながら、ふたりは無言でアスファルトの道を歩いていた。
 しばらくして、
「お前さ、あんまり怪我すんなよ」
 ふいに、風に乗せるように、カイジが呟いた。
 しげるはカイジの顔を見る。が、カイジはしげるの方を見ていない。
 わざとらしく、視線を外している。悪戯に失敗した子どものように。

 しげるは軽くため息をついた。
 恐らくこれは、銭湯でしげるの体をみたとき、言いかけてはやめていた言葉だ。
 あの時は思い止まった癖に、結局、口にせずにはいられないのだ、この人は。
 とんだお節介だ。甘っちょろくて、生ぬるい。

 柔らかい風が頬を撫で、さっき使った安っぽいシャンプーの香りがたつ。
 カイジの髪からも同じ匂いがして、しげるは軽く目を伏せる。

 カイジの言葉や態度は、時折、羽毛のようにしげるを包み込む。
 それは、決して心地の悪いものではなかった。
 ふたりで連れ立って銭湯へ行くような、くだらないことでも、少なくとも昨日の喧嘩よりはずっと、充足感を得られる。
 こんな満たされ方もあるのかと、カイジに出会って、初めて知った。

 しかし、しげるは解っていた。
 いつまでもこんな風に過ごせるはずがない。
 しげるの魂は、いつだって焼き切れるような、本当の勝負を求めている。
 今は知り初めたばかりのこの温もりが、邪魔になる時が必ず来る。
 その時、自分はカイジと離れるのだろうと、しげるは確信している。

 しかし、それに対するしげるの感慨は、皆無といってよかった。
 明日もよく晴れるだろうな、と思うのと同じくらい、淡々と、『いつかカイジとさよならする日がくるのだろうな』、そう思うだけだ。

 離れたくないとも思わない。
 きっとカイジとの別れは、必然だから。実際別れの日がきても、自分はきっと悲しんだりしない。

 その日がきたら、カイジは泣くだろうか。
 泣かないかもしれない。なぜか、そんな予感がした。
 くだらないことで泣いてばかりいるくせに、いざというときは驚くほど冷静なのがこの人だから。
 もしかすると、いつか別れの日がくることも、わかっているのかもしれない。

 自分のスニーカーの爪先を見ながら、つらつらとそんなことを考えるしげるの耳に、
「あ」
 小さな声が飛び込んできた。

 声の主は立ち止まり、呆けたように空を見上げている。
「流れ星……」
 ぽつりと呟かれた言葉に、しげるも天を仰いだ。

 昼間、雲ひとつなく晴れたおかげで、頭上には砂を撒いたような星空が広がっていた。
「あ、また流れた」
 そう言って、カイジが指差す先、きらめく白い星が、まっすぐな線を描き、夜空へ溶けるように消えていった。

「最近ニュースで、流星群が来るとか騒いでたけど、今日だったんだな」
 珍しいものを見たせいか、カイジの口調はやや興奮している。
 視線を夜空に張り付けて、流れる星を探すカイジに、しげるは笑う。
「やけに熱心じゃない。なにか願い事でもするの」
「や、そういうわけじゃねえけど……あ!」
 言っている間に、ひときわ大きな星屑がひとつ、遠くの空を横切り、
「金、金、金……」
 咄嗟に三回、早口で呟いてから、カイジははっとしてしげるを見た。
「お……お前が、願い事がどうのとか言うから、つい釣られちまったんだよっ……!」
 冷ややかなしげるの視線に赤い顔で言い訳をして、カイジは取り繕うように言う。
「お前こそ、願い事とかしねえの?」
 そんなことしないよ、と切り捨てかけて、しげるは思い直した。

 願い事なんて、今までしたことがない。
 だけど、今、ひとつだけ。
 願い事と呼べるものかどうかもわからないけれど、ただひとつだけ、思い浮かぶものがあった。

 隣で相変わらず空を見上げているカイジの横顔を見る。
 しげるが考えていることなど、まったく知らないように、熱心に星を探す、その顔。
 目に焼き付けるようにして、一度、瞬きしてから、しげるも空を見上げた。

 ちょうどその時。
 ふたりの間の空を裂くように、光の線が一筋、すうっと流れた。

 ーーいつか、離れることになっても。
「あんたのことは、忘れないでいたいな。ずっと」

 それは小さく、流れ星とともに消えてしまうような言葉で、
「? なんて言ったんだ?」
 聞き漏らしたカイジが、すかさず聞き返してきたけれど、しげるはただ笑って、しずかに首を横に振った。

「なんでもないよ」







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