とある朝 過去拍手お礼 流血注意


 転ばずの赤木。

 誰かが呼び始めたその二つ名の通り、なにがあっても転ばない、無敗の人生を、アカギは送ってきた。
 すいすいと泳ぐように危なげなく浮き世を渡り、少しだけ高い場所から、退屈そうに人々の悲喜こもごもを見下ろす。

 それが赤木しげるという男の人生のあり方だった。
 


 だからアカギにはわからない。
 目の前の、黒いゴミ袋の山に埋もれて眠る男のことが。


 その顔は潰れた果物のようにぐちゃぐちゃで、もとの顔が解らぬほど赤紫色に腫れている。
 服も切り裂かれ引き裂かれ、まるで襤褸を纏っているよう。
 そこから覗く腕や足だって、泥と血にまみれ、口に出すのも憚られるほど悲惨な状態だ。
 特に両腕は、正常な人体では有り得ない方向にねじれてしまっている。だが骨が突き出ていないだけ、まだマシかもしれない。
 生ゴミの酸い臭いと血の生臭さが混ざり、禍々しいほどの臭気を辺りに撒き散らしている。
 男の体のあちこちで乾ききった錆色の血液が、のぼりたての朝日に照らされていた。


 一般人が見れば卒倒してしまうような光景だった。
 だがアカギが男のこんな様子を見るのは、初めてではない。


 男には、どうしても許せない相手がいるらしい。
 そいつに繋がる糸口を見つけたと言って、家を留守にしたその後は、大抵こんな姿でゴミ捨て場なんかに転がっている。


 こんなになっても追い続けるほど憎い相手がいるというのは、いったいどんな気持ちなのだろうか。
 アカギにはわからない。

 しゃがんだ膝に頬杖をつき、アカギは寝息をたてる男を眺めていた。





 目覚めたばかりの雀の鳴き声が、場違いなほど長閑に響く。
 その騒がしさに、腫れた両瞼をひきつらせ、男が目を覚ました。

 左目は完全に潰れてしまっている。右目も糸のように細くしか開かない。
 その右目で辛うじてアカギの姿を捉え、男は緩く息を吐く。

 その拍子に痛みが走ったのか、男はぐちゃぐちゃの顔をさらに歪め、地獄の底を這うような声で呻いた。

「おはようカイジさん。気分はどうだい」
「見りゃわかんだろ……最悪だよ。クソっ」

 発音がひどく不明瞭なのは、きっと歯が折れているからだろう。
 喋った拍子に、口の端からまた新しい血が溢れ出す。

 最悪。そう、たしかに最悪だ。
 しかしアカギは知っていた。

 こんなときに、カイジの瞳は最も冴えざえとした光を射ること。

 それは目を見張るような光だった。
 まるで祓を終えたかのように、余計な雑念、その一切が削ぎ落とされた、生まれ変わったような輝きだった。


『転ばずの赤木』にはわからない。
 転んで地に這いつくばったときに見える地平。そこに開ける世界。
『転んでもただでは起きない』という言葉を彷彿させる、カイジの潰れた目には、今いったいなにが見えているのか。想像すらつかない。

 こんなとき、アカギはカイジのことが少しだけ眩しく見えるのだ。

 それは絶対に転ばない男が、派手に転んでばかりの男に向ける、おかしな憧憬だった。






 茜に染まる朝焼けの空を見上げ、カイジはひとつ息をつく。
 発音のはっきりしない声で、しかし揺るぎない力を込めて言った。

「次は……絶対勝つ……!」

 その決意を形にするように、カイジは痛みに呻吟しながら立ち上がろうとする。
 長い時間をかけ、ふらふらとよろけながらも、二本の足を地に踏ん張ってしっかりと自力で立ち上がった。

 アカギはしゃがみこんだまま、朝日に照らし出されるカイジの顔を眩しそうに見上げる。

「色男だぜ、カイジさん」

 ボコボコの顔をしかめ、「嫌味かよ」とカイジが呟く。
 だがアカギは本気でそう言ったのだ。 
 
(地を掴んで立ち上がろうとする瞬間の、あんたの顔がいちばん好きだよ。言わないけど)

 アカギはただ黙ったまま、静かに笑った。






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