自覚・1 アカギと女性のキスシーン有り
倦んでいる。
琥珀色の液体に映る、死んだような自分の目に視線を落とし、アカギはぐいとグラスを干した。
週末だからか、大通りから一本入ったところにあるこの地味なスナックにも、そこそこ客が入っていた。
カウンターにはアカギ以外に二人の男、ボックス席では歓送迎会の二次会らしき一団が、カラオケで盛り上がっていた。
このところの無聊を、アカギは連日、酒で慰めている。
アカギの倦怠は、酒で埋まるような生易しいではないのだが、博奕も喧嘩もさして目覚ましい相手に出会さないから、仕方なく酒で鬱憤を晴らしているのだ。
退屈で人が死ぬとするなら、自分はもはや瀕死の状態だとアカギは思う。
禿げ上がった額まで真っ赤に染め上げた男が、太鼓腹をさすりながら演歌を歌っている。
それに合わせてボックス席とカウンターから飛び交う、出鱈目な手拍子や指笛に、アカギはふっと笑った。
このスナックに来るのは二度目だった。アカギはこういう、五月蝿い場所で飲むのも案外嫌いではない。
特に今みたく、物憂い気分の時は、バカ騒ぎする人々のエネルギーが逆に心地よかったりするのだ。
曲が終わり、どっと歓声が上がったところで、アカギは席を立つ。
もう一杯くらい飲みたい気分だったが、先ほどから、店の若いホステスがチラチラと自分の方を気にしているので、面倒なことになる前に店を出ようと思ったのだ。
「待って」
店を出て歩き出そうとすると、後ろから女の声に呼び止められる。先ほどの若いホステスが、アカギを追って出てきたのだった。
アカギは無視して歩き出そうとしたが、女は素早くアカギに駆け寄り、体の前に回り込んで両手でアカギの手を握る。
強くもないが、簡単に振り払えるほど弱くはない力加減。男相手に計算し尽くされたそれが、逆に鬱陶しい。
アカギがため息をつくと、女は傷ついたような顔をしたが、それでも手だけは離さない。
二人の頭上で電灯が、ジジ、と音をたてた。
初めて女の顔を間近で見たアカギは、女の頬に残るあどけなさに気がついた。
薄暗い照明と化粧のせいで大人びて見えたが、歳は自分とそう変わらないのかもしれない、と思った。
女は不安そうな顔でうつむき、斜め下に目線を投げている。
精一杯、可憐に見せているようだが、濃い化粧と露出の多い黒のドレスに、派手な巻き髪では不釣り合いだ。
女は長い睫毛で音がしそうな瞬きをしたあと、つやつやと濡れた赤い唇を開く。
「ねぇお兄さん、また来てくれる?」
曲がりなりにも水商売の女らしく、アカギの嫌う余計な詮索を口にしないのは良かったが、とろとろと甘い声には聊かげんなりした。
それでもアカギは、
「……気が向いたらね」
と答えてやる。
すると、女はあっさりと花が綻ぶような笑顔を見せ、アカギにぐっと体を寄せてなんども念押しする。
「絶対、絶対だからね! 約束よ!」
子供のようなはしゃぎっぷりと対照的に、女の体からは濃い香水が匂い立つ。
花と日本酒の混ざったようなその香りは、上等な香水のものに違いなかったが、噎せ返るほどの香り立ちの強さにアカギは顔をしかめ、僅かに身を引いた。
女はアカギの気を引くことに必死で冷静さを欠いているらしく、アカギの気分を察することができずに、身を引いた分距離を縮めてくる。
それにやや辟易しながらじりじり後退を続けていたが、ついに肩が建物の壁に当たり、アカギは内心舌打ちする。
アカギを壁際に追い詰め、女はせつなげに潤む瞳でアカギの顔を見上げた。
僅かに口を開き、言葉を詰まらせたかのように唇を戦慄かせると、ハイヒールの爪先で伸び上がって口付けてきた。
正直、まったく気分は乗らなかったが、ここで拒むのもまた面倒なことになりそうだと思い、アカギは黙って女の唇を受け止める。
拒絶を示さないアカギにほっとしたのか、女の行動は大胆になる。
角度を変えて何度も唇を押し当てながら、アカギの首裏に腕を回してきた。
むわりと漂う女の香りが、一段と近くなる。
一方的に与えられる、情熱的な口づけ。
しかしアカギは目すら閉じずに、女の長い睫毛と青いアイシャドウを、冷めた目で眺めていた。
こんなつまらないキス、さっさと終わらせたいというのが本音だった。
こみ上げる欠伸を噛み殺しつつ、アカギは退屈そうに目だけで辺りを見渡す。
そしてふと、明るい大通りの方に目線を投げ、瞠目した。
一人の男が、立ち止まってアカギの方を見ている。
町灯りの逆光で表情はよく窺えないが、 驚いた顔をしているようだった。
アカギは、男の顔に見覚えがあった。いや、それどころか、何度か体を重ねたことすらあった。
伊藤開司ーーその男とアカギは、しかし恋仲ではない。
アカギがたまたま傍観していた博奕に大敗したカイジの、借金を肩替わりしてやったのが二人の始まり。
つまらない博奕を打たされ、 うんざりしていたアカギは、帰りにたまたま立ち寄った雀荘でカイジに出会った。
アカギから見れば、実にしょうもない勝負だった。それこそ、欠伸のでるほどに。
しかし、それに目を血走らせて歯を食い縛るカイジが、今ごろはどこかの海に沈められているであろう先刻の相手よりも数段いい表情をしていたから、アカギは金を積んでカイジを救ってやろうとした。
それは完全なるアカギの気紛れで、金を返してもらおうなどとは微塵も思っていなかったし、カイジともこの場限り、もう二度と会うことはないだろうと思っていた。
しかし、カイジはそうではなかったようで、なにか裏があるのではないかと勘繰り、アカギからの救済を拒否した。
そうなるともう、途端にアカギは面倒臭くなり、ならば体で返せとカイジに耳打ちしてやった。
それも、まったくの思いつきだった。
当然、アカギはカイジが拒否を示すと踏んでいたのだが、カイジは予想を裏切り、青ざめた顔で頷いたのだ。
思いがけない方向へ話が転んだが、憂さ晴らしにはなるかもしれないとアカギはカイジをホテルへ連れ込み、抱いた。
男とセックスするのは初めてだったが、突っ込んで吐き出すのは女相手の時と変わらないし、それなりの快楽は得られた。
それに、女とは違い、低い声で激痛に呻いては睨み付けてくるのが新鮮だったから、アカギは暫くカイジと寝てみることにしたのだ。
それ以来、主に体を繋げたり、時々飲みに行ったり賭け事をしてみたり、そういうセックスフレンドのような知人のような、奇妙な関係が続いていた。
その男が、驚きに目を見開き、女とキスするアカギを見つめているのだ。
調度、女が満足したかのように口づけをやめ、アカギの首に抱きついてくる。もちろん、傍観者には一切気がついていない。
アカギは女を抱き返すこともせず、自由になった顔を動かして、今度はまともにカイジを見た。
カイジは茶色い紙袋を腕に抱えていた。
袋の口から、マルボロのカートンが覗いている。
そういえば、この人のアパートこの辺だったっけ、とアカギは思い出した。
カイジはパチンコ帰りに偶然、この現場に出会したらしい。
アカギも流石に驚いていたが、呆然とするカイジに、ニヤリと口端を上げてみせた。
すると、カイジはびくりと肩を揺らし、焦ったように視線をさまよわせ始める。
こういう場面を見慣れていないのか、見た目にそぐわないウブな反応にアカギはつい笑い出しそうになる。
ちょっとした悪戯心が湧いてきて、アカギはカイジの顔から視線を外さないまま、右腕で女の腰を強く抱き寄せた。
そして、驚いて顔を上げた女の唇にぶつけるように唇を重ね、捩じ込むように舌を突っ込んでやる。
アカギの性急な行動に、女は悲鳴のような声を上げたが、すぐに甘く喘ぎながら舌を絡めてきた。
アカギは女と激しく口づけながら、カイジをじっと見詰める。
カイジは息をのみ、アカギと女のキスに釘付けになっていた。
目だけで挑発するように笑いかけてやると、みるみる顔が歪んで汚ならしいものを見るような顔つきへと変化していく。
その顔に、アカギは愉快な気分になる。女とのキスではなく、カイジから向けられる視線にひどく高揚していた。
女と舌を絡めながら、目線でカイジを凌辱しているような、妙な興奮。全身の血流が、潮騒のようにざわざわと五月蝿い。
ーー今この場で、押し倒して犯してやりたい。女ではなく、カイジを。
嫌がる体にのし掛かり、なんどもなんども貫いて、溢れるほどにその裡を自分で満たしてやりたい。
いまだかつて、誰にも抱いたことのない激しい渇望をぶつけるように、アカギは女の顎をつかんで口づけをより深くする。
すると女が苦しげに呻き、その声を合図にしたようにカイジは忌々しげに舌打ちすると、アカギからふいと視線を逸らし、その場から立ち去ってしまった。
カイジが視界から消えると、今までの興奮が嘘のようにアカギの熱がすっと引き、代わりに欠伸の出そうな退屈が戻ってきた。
わざとらしいほど大きな水音をたてて自分の口内を這う女の舌も、もはや只々煩わしいだけだった。
アカギは無理矢理女の口づけを解くと、引き留めようとする華奢な体を押し退けて通りの方へと歩き出した。
コロコロと変わるアカギの態度に困惑し、非難する声を背中に浴び、もうこの店に来ることもないだろうと思いながら。
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