猫の恋 野良猫になつかれるカイジの話


 錆びた鉄の階段を半分ほど上ったところで、しげるは立ち止まった。
 後ろから、誰かが上ってきている。しかし、その足音が異様なほど軽いのだ。

 振り返ると、果たしてそこにいたのは人ではなく、ちいさな獣だった。
 三毛猫である。短い四つ足で跳ねるようにして、二段飛ばしで階段を上っていたが、しげるの視線に気がつくと、次の段に前肢をかけたまましげるの顔をじっと見上げてくる。

 ここの住人の飼い猫なのだろうか?
 警戒心むきだしの瞳でじっと見詰められるも、しげるはすぐに興味を失い、ふたたび階段を上りはじめた。
 するとしばらくして、ちいさな足音もやはり後からついてきた。


 しげるは二階の一室の前で立ち止まり、部屋のドアをノックする。
 しばらく待つと、鍵の外される音がして、住人が顔を出した。
 だぼついた灰色のスウェットに、あちこち跳ねた長い髪。寝ぼけ眼の住人に、しげるは朝の挨拶をする。

「おはよう、カイジさん」
 だがその挨拶は、「にゃあ」という声で遮られた。

 思わずしげるが声のした方を見ると、いつの間にそこにいたのだろう、さっきの猫が、しげるの背後、アパートの柵の上にちょこんと座っている。
「あー……お前、来ちまったのか」
 困ったような声でカイジがそう言ったので、しげるは猫からカイジに視線を移した。
 カイジの言葉は明らかにしげるにではなく、猫にかけられたものだ。
「この猫、カイジさんの猫なの?」
「いや……」
 カイジはぼりぼりと頭をかきながら言葉を濁す。
 その隙に、猫はすとんと柵から飛び降り、しげるの隣に並んでカイジの顔を見上げた。

 まだ若い、三毛の雌猫だ。三色の毛の分かれ方が曖昧で、毛並みもぼさぼさに荒れている。
 ただ金色の目だけは澄んでいて大きく、それがこの薄汚れた猫の印象を愛嬌づいたものにしている。

 カイジは屈むと、猫の前肢の両脇に手を差し入れ、ぎこちない動作で抱き上げた。

 そうするのがあたりまえだとでもいうような自然さで、カイジが猫を抱き上げたので、しげるはやや驚く。
 なんとなく、カイジはそういうことをしないと思い込んでいたからだ。

 極端に短い団子しっぽをふさふさと揺らし、猫はおとなしくカイジに抱き上げられていた。
 まだ仔猫に毛の生えたような少女猫らしく、くりくりした瞳にカイジの顔を映すと、掠れたような甘い声でふたたび「にゃあ」と鳴いた。

 カイジは相変わらず困ったような顔で猫を見ていたが、しげるの視線に気がつくと、なぜかへどもどしながら、聞かれてもいないことを喋り始めた。
「いっぺんだけ……こないだ、雪降った日に、自転車置き場で丸まってガタガタ震えてたから。家に上げて、体拭いてやって、そしたら……」
 カイジはそこで口ごもり、猫を見る。
 情けなく眉を下げるカイジとは対照的に、猫は爛々と輝く瞳でカイジを見つめている。

 家に上げて、体を拭いてやった?
 カイジを信頼しきった猫のようすから、それだけではないだろう、としげるは推測した。

 屋根のある場所に入れてやったくらいで、野良猫がこうして人の家に通ってくる可能性は少ない。
  カイジのことだ、きっとそれだけでなく、ミルクでも与えてやったに違いない。
 だから、家を覚えられ通われるようになってしまったのだ。

「こんな汚い猫なんか助けてどうするの。恩返しでも期待してるの」
 小馬鹿にしたように鼻で笑いながら、しげるは沸き上がる苛立ちを感じていた。
「べつに、そういうんじゃねえけどさ……」
 うわの空のように答えながら、カイジはじっと猫のようすを眺めている。
 しげるの方をちらとも見ないカイジに、しげるの苛立ちがさらに募る。

 手に取るように、しげるには想像できた。
 雪の中で震えるちいさな生き物。カイジはきっと、一度は通り過ぎようとしたに違いない。
 だけど結局、気になって戻ってきてしまったのだろう。
 さっきと同じように、ぎこちない手つきでそっと抱き上げ、誰かに見られないかヒヤヒヤしながら、急いで部屋に連れていったのだろう。
 ミルクを舐める猫の隣にしゃがみこんで、すこしの後悔とともに「なぜ助けてしまったのだろう」と自問する姿まで、目に浮かぶようだった。


 しげるはべつに、猫に嫉妬などしない。しげるの苛立ちの原因は、もっとべつのところにある。

 見るからに生き物が得意そうではないのに。こんな猫、放っておけばいいのに、それができないカイジに苛立つのだ。

 やさしさ。その資質のせいで、なんどもなんども煮え湯を飲まされ続けているのに。
 助けた相手に裏切られて、その度にたくさん涙を流すくせに、この人はどうして、こうやって誰かを助けることをやめられないのだろう。

 じりじりして、もやもやする。
 その気持ちをぶつけるように、しげるはカイジの顔を睨みつけ、吐き捨てる。

「カイジさんのその、誰にでもやさしいところが嫌い」
「え、」

 ようやく猫から視線が外され、二つの黒い瞳がしげるを見る。
 棘のある言葉を投げられた理由がわからず、ぽかんとしているカイジのようすがますます腹立たしくて、やるせないような気持ちになって、しげるはもう一度、ちいさく吐き捨てた。

「……嫌いだよ」

 手を伸ばして傷のある頬に触れ、驚いたような瞳を無視して軽く背伸びをする。
 猫を挟んで、ふたりの体が近づく。
 頭上で重なる顔と顔を、三毛猫は不思議そうに見上げていた。






[*前へ][次へ#]

4/11ページ

[戻る]