髪


 裸の肩に纏いつく寒さで、カイジは目を覚ました。

 冬の朝の陽射しが、カーテン越しにやわらかい。目覚まし時計の針は、九時過ぎを指している。
 寝返りをうって仰向けになる。隣を見ると、いつもより広くスペースの空いたベッドはもぬけの殻だった。
 カイジは深く、長いため息をひとつ、ついた。

 ーー帰った、のか

 自分とは色も長さも違う髪の毛が、枕に落ちている。
 それを一本つまんで、朝の光に透かしてみる。
 真っ白なそれはきらりと光を反射し、その分、カイジの心に影が射した。



 昨夜、確かにあの男がここにいた。
 その現実を、残った髪の毛だけが証している。

 その男はいつも、なんの連絡もなく急にやってきて、嵐のようにカイジの心も体もぐちゃぐちゃに引っ掻き回した挙げ句、その朝、なにも言わずに姿を消している。
 そのくせ、後に残していくのは晴れた空ではなく、すこしの髪の毛とこんな一点の曇りなのだから、カイジにとっては嵐よりもずっとタチがわるかった。

 その男とカイジは、ある雀荘で知り合った。
 目を瞠るような強さをもつ男だった。恬淡としていながら、勝利を引き寄せる強烈な磁場のようなものを持っている。その場にいる連中の誰とも、明らかに違っていて、まるでべつの生き物のようだった。

 大金を無造作に鞄に捩じ込み、土砂降りの中傘も持たずに出ていこうとするのを慌てて追いかけ、傘に入れてやった。
 日付が変わろうとしていた。これからどうするのかと聞くと、今から考えるというから、泊めてやった。
 それからというもの、男はたびたびカイジの部屋を訪れるようになった。

 体を重ねたきっかけは覚えていない。
 覚えていない、ということはきっと、酔ったはずみで、だったのだろうとカイジは思っている。
 している間のことはまるで記憶にないが、翌朝目覚めたときに頭が割れそうなほど痛かったのは鮮明に記憶しているから、そうとうな深酒をしたのだろう。
 それ以来、なんとなくずるずると、そういうことを続けている。

 ーー愛しているとか好きだとか、一度も言ったことないし、聞いたこともない。
 そういうのを、必要としない関係なのだ。

 初めてのときも、カイジは目覚めるとひとりだった。
 それからもずっと、一度の例外もなく、あの男はカイジの眠っている間にいなくなる。

 そんなことを寂しいなどと思うタマではない。
 けれど、時々とてつもなく虚しくなるのだ、今みたいに。

 会って、寝る。それだけじゃなくて、本当はもっと、いろいろなことを話したりしてみたいのに。
 ギャンブルのこととか、他のもっと他愛ない話だっていい。なんでもいいから、男と会話をしてみたかった。

 カイジ自らそういう願望を抱くことは滅多になく、だからこの思いに気づいて、はじめはずいぶん戸惑った。

 心を乱されるのが嫌ならば、男との関係を絶てばいいのに、訪ねてきても部屋に上げなければいいのに、そうしようという気持ちがほんのすこしも湧いてこないのが、また悩ましかった。

 エナメルのように光る手の中の髪の毛を、カイジは強く握る。

 自覚するのが嫌で、目をそらし続けてきたけれど、確実にカイジの中に募っていくものがあって、自分を誤魔化すのも、もう限界だった。

 つまりは、
「惚れちまったのか……」
 あの、嵐のような男に。

 言葉として口に出すと、その重みが心にのしかかる。
 我ながら、なんて救いようのない。
 カイジは自嘲気味に笑った。


「……カイジさん?」
「!!??」

 ひとりきりの部屋に突然響いた声に、カイジの心臓が、どくん、と大きく跳ね上がった。
 飛び上がるように起きると、帰ったはずの男がそこにいた。
 きっちりと服を着込んで、居間と流しの境に立ち、カイジのほうを見ている。

「あ、アカギ!? お、おま、おま……」
「すこし、落ち着いたら」

 口をぱくぱくさせるカイジに、アカギは口角を緩く持ち上げる。

「カイジさん、あんた、オレに惚れてたんだ」
「っ……!」
 カイジの顔が、一瞬で燃えるように熱くなる。
 しかし、追い討ちをかけるように呟かれた言葉に、カイジはさらに驚愕した。
「まぁ……知ってたけどね。あんた、わかりやすいから」
「!」
「そろそろ、言葉で聞けるころなんじゃないかと思って」

 カイジは頭が真っ白になる。
 そのために。
 それを聞くために、今日は帰らずここに残っていたというのか?

 床を踏みしめ、ゆっくりとベッドに近づいてくるアカギに、カイジはしどろもどろになりながら怒鳴った。
「お前っ、きっ、きたねーぞっ……! そんな、盗み聞きみたいなことっ……!」
 八つ当たりしたところで、はたと気づく。

 なんでこいつ、笑ってるんだ?
 アカギが笑うところなんて、見るのはほとんど初めてだった。
 愉しそうなその表情は、少なくとも拒否を示していないように見える。

 ということは。
 いや、まさか。
 でも、もしかすると……

 カイジは逡巡の末、恐る恐る、口を開いた。
「そ、」
 ごくりと唾を飲み込み、呼吸を整える。
「そ……ういう、お前は、どうなんだ」
「なにが?」
 空とぼけているアカギの顔を、カイジは睨むように見る。
「……オレのこと、」
 好きなんじゃねえの? とまでは言えなくて、言葉を濁すカイジに、アカギは軽く首を傾げて笑う。
「さぁ……どうかな?」
 そして、猫のようなしなやかさでひらりとベッドに上がり、布団の上からカイジの腿の上に座る。
 驚いて身を引こうとするカイジの手首を掴み、その右掌に強く握られたままの白い髪をちらりと見てから、カイジの額に額を、こつん、と押しつけた。

「どうでもいいでしょ、髪なんて。本物がここにいるんだからさ、こっちにしときなよ」

 アカギは三日月のように目を細めると、さらに顔をカイジに近づける。

 ぴくり、とカイジの指が震えた。
 その拍子に、白い髪はするりとカイジの掌を抜け、手首を一筋の水のように伝い、落ちていった。





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