キスしたい 甘々 しげるが酔ってます

 軽くノックされた玄関の扉をあけるなり、カイジは顔をしかめた。
 鼻から抜けて喉を焼くような、ツンとした香りが、つめたい外気とともに流れ込んできたからだ。
 その香りは、珍しく微笑など浮かべながら玄関前に立っている、少年の体から匂いたっているものに違いなかった。
「カイジさん、ただいま」
「ただいま、じゃねえよ。お前酒臭いぞ、しげる」
 カイジの言葉に返事をせず、しげるは覚束ない足取りで土間に上がり、行儀悪くスニーカーを脱ぎ散らかしながらカイジに近づく。
 小動物の死骸さながらに、両足とも裏返しになったスニーカーを見て、カイジの眉間の皺が深くなる。
 そんなカイジなどお構いなしに、喉をゴロゴロ鳴らしそうな顔でくったりともたれかかってくるしげるの体を、ぶつぶつ言いながら引き摺り引き摺り、カイジは居間へと向かった。

 しげるが酔っぱらうのは、珍しいことではない。
 賭博の代打ちなんぞしていたら、勝った暁に祝杯と称して飲まされることなどしょっちゅうである。それに加えてこの時期は、ヤクザだって忘年会というものをするらしく、しげるも代打ち後の流れで連れていかれたりして、酒を口にする機会がぐんと増えるのだ。

 しげるが代打ちを引き受ける相手は法律の枠外に生きているような連中ばかりだし、しげるも下手な大人より達観しているところがあるものだから、相手はしげるが未成年でもお構いなしに勧めてくる。
 しげるも酒は嫌いではないから、勧められるまま飲むうちに、今日みたいにしたたか酔っぱらってしまうこともままあった。

 いくら普通の中学生と違うとはいえ、まだまだ発育途上の体は、アルコールの力に負けてしまうらしい。

「ほら、飲めよ」
 卓袱台に体を預けるようにして突っ伏すしげるに、カイジはコップ一杯のつめたい水を渡してやる。
 しげるはのろのろと体を起こしてそれを受けとると、一口だけ喉に流し込み、火照った頬にコップを当てた。みるみるうちに熱が吸い取られていき、しげるは目を閉じて、ひとつ、息をつく。

 カイジはしげるの向かいに座ると、重々しく口を開いた。
「お前、まだ中学生だろう。 それをこんなに酔わされて……」
 薄く目を開いて、ああ、また始まったとしげるは思う。
 しげるが酔っぱらってカイジを訪ねると、決まってお小言が始まる。
 それはお説教ともいえないような、小さな愚痴めいたもので、くどくどと長いうえになんどもなんども同じことを聞かされるので、正直しげるは飽き飽きしている。
 しかし、こういうときだけカイジが立派な大人めいたことを言うのがおかしくて、しげるは酔うとついカイジのもとを訪れてしまう。

「飲ませる相手も悪いけど、自己管理できてないお前がいちばん悪い」
 これも、耳にタコができるほど聞かされた文句だった。
 カイジはカイジなりに、しげるの体を心配しているのだ。
 それはしげるだってわかっているけれど、聞きなれすぎたカイジの言葉は、まるで子守唄のような心地よさで、酩酊感の中をふわふわ漂うしげるの耳を素通りしていく。

 それに気づいたカイジの語気が荒くなった。
「お前オレの話聞いてないだろっ……!」
 向けられた怒りの矛先も、柳に風と受け流し、しげるは酔いに潤んだ瞳でひたすらカイジの顔を見つめていた。
「そんなに怒って疲れない?」
 しげるが聞くと、それがまた逆鱗に触れたらしくカイジはいっそう怒り始めた。純粋な好奇心からの質問だったのに、バカにされたと勘違いしたようだ。

 姿勢を保つのがだるくなってきて、しげるはコップを置いて頬杖をつく。
 カイジは相変わらず、顔を赤くしてひとりで怒っている。
 バカだなカイジさん、オレのためにこんなに怒って。
 酔いに濁った思考回路が、チョコレートみたいにとろける。

 キスしたいなあ。
 ふってわいたように、そう思った。

 一度そう思ってしまうと、うまく回らない頭ではもうそのことしか考えられず、気がつけばしげるはカイジのよく動く唇だけを、ぼーっと、物欲しげに見つめてしまうのだった。

 しげるの視線をどう受け止めたのか、カイジは言葉を切り、喧嘩腰で怒鳴る。
「なんだよ。言いたいことがあるんならはっきり言えよっ!」
「すき」
「……っ、!」
 間髪いれずに返ってきた言葉に意表を突かれ、驚きそこねたような、怒ったような顔で、ただ口をぱくぱくさせるカイジ。

 不意に訪れた沈黙のなか、遠くの方から除夜の鐘の音が響いている。

「やっぱりお前、オレの話聞いてねえだろっ……」
 しばらくののち、カイジはまたしてもしげるを咎めたが、その声は困惑を多分に含んで弱々しかった。
 顔がさっきよりもずっと赤らんで、本当にキスする前みたいになったから、しげるはぼんやりと訊く。
「カイジさん、キスしてもいい?」
「だから……っ!」
 カイジはそう言ったきり、言葉を詰まらせてしまった。目線が迷子の子どもみたいな不安定さで揺れ始める。

 ああ、駄目だよカイジさん、そんな顔しちゃ。
 嫌がられても、無理矢理にでも、キスしたくなっちゃうでしょう。

 頬杖をついたまま、しげるは、ふっ、と苦笑する。
 その顔はやけに大人びて分別くさく、しげるがそんな顔をすると、まるで表情だけ、ふたりの歳がひっくり返ってしまったかのようだった。
「ダメって言わないってことは、いいってことだよね?」
 それでも口だけはそんな、子どもみたいに勝手なことを言い、カイジが口を開く前に、しげるはカイジの方へ大きく身を乗り出した。






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