月の夜(※18禁)・2


 革張りの茶色いソファの上で、その少年はカイジを待ち構えていたかのように、薄い唇を釣り上げた。

「待ってたんだ。そろそろ、アンタが来る頃なんじゃないかと思って」

 高層階だというのに、この部屋はカイジがいつ訪れてもカーテンがぴったり閉じられていて、月明かりひとつ入ってこない。
 薄暗く絞られた照明の下、少年の黒い瞳だけが、爛々と、猫のように光って、部屋の入り口に突っ立っているカイジを見つめている。
 その瞳に無言で促され、カイジは俯き、のろのろと少年に近寄った。

 カイジが傍らに立つと、少年はしなやかな動作で立ち上がり、やんわりとカイジの腕を掴んだ。
「……そろそろ、オレのことが欲しくて、たまらなくなる頃合いなんじゃないかって……」
 からかうような口調に、カイジの頬が火を噴く。
「!! ……違うっ、そんなんじゃ……っ!」
 少年は目を細め、軽く伸び上がってカイジの耳で囁いた。
「……淫乱だね、カイジさんは」
「やめろっ!!」
 叫ぶのと同時に、カイジは腕を掴んでいた少年の手を振り払う。
 怒りと羞恥で顔を歪ませ、体を大きく震わせるカイジを、振り払われた手もそのままに、少年は無表情に眺めた。
「……わかってる。冗談だよ。アンタは生き延びるために、仕方なくここへ来るんだろ。アンタは、ただーー」
 ゆっくりと、突き放すように、少年は言葉を紡ぐ。
「ただ、オレの『血』を、必要としてるだけだ。そうでしょう?」
 カイジはひどく苦しそうな顔で項垂れた。
 頷いたのか、ただ単に俯いたのか、判別がつかないほど、曖昧な仕草で。


ーーー

 カイジが己の特異な体質に気がついたのは、ほんの数ヶ月前のことだった。

 きっかけは、バイトのレジで、見知らぬ誰かの血が指先に付着したこと。
 その日やりとりした客の中の一人がたまたま怪我をしていて、釣り銭を渡すときにでも付いてしまったのだろう。
 それはほんの五ミリ程度の、乾いて掠れた茶色い円で、いつの間にかカイジの人差し指の先を汚していた。

 普通は不快に思ってすぐに拭き取るはずのそれに、その時のカイジはなぜか、言いようもなく惹き付けられた。
 と、同時に、今までに感じたことのないくらいの強烈な渇きを覚え、抗いがたい欲求に突き動かされるまま、カイジは人差し指を口に運び、誰のものかもわからないその血を舐めた。
 口に含んだ瞬間に、舌がとろけてなくなってしまうのではないかと思うほど、その血は甘く、芳醇な味がした。

 ああ、もっと。
 もっと、欲しい。

 狂おしいような気持ちでそんなことを思ってから、カイジは自分自身に戦慄した。
 気のせいだとなんども自分に言い聞かせた。だが、思考から遠ざけようとすればするほど、ヒトの血液に対するカイジの執着はいや増すばかりだった。

 その上、その日を境に、毎日の食事が急に、砂を噛むように味気なくなってしまったのだ。
 肉も魚も野菜も果物も、果ては、息を吸うように口にしていた酒やタバコなどの嗜好品まで、まったく美味いと感じられなくなった。
 無理してそれらを腹に詰め込んでも、満たされることなどまるでなく、飢餓感が最高潮に達すると、重い貧血のような目眩と虚脱感に襲われ、まともに立っていられなくなることもしばしばだった。

 突如として己の身に降りかかったこの災厄について、カイジは自分なりに調べ、『好血症』と呼ばれる精神の病気があることを知った。
 だが、好血症で片付けるには、カイジの症状は常軌を逸している。
 となれば、残る可能性はひとつしかない。

 吸血鬼。
 ヒトの血液を糧に生きる、魔の者。
 人間には当然、忌むべきものとして恐れられ、夜の世界でその身を隠して生きるものたち。

 自分がそれなのだと、カイジ自身が受け入れられるまでにかなりの時間を要した。
 だって二十一年間、太陽の光の下で、普通の人間として問題なく過ごしてきたのだ。母も、遠い記憶の中の父も、間違いなく普通の人間だった。

 どうしても現実を受け入れられないカイジには、ヒトを襲って吸血などできるはずもなかった。
 吸血鬼に血を吸われた人間は、いずれ自身も吸血鬼と化してしまうのだ。それを知っているから、たとえ自分の生命が脅かされようとも、カイジにはヒトの血を吸うことがどうしてもできなかった。

 途方もない飢えを感じながら、カイジはただ呆然と夜の街を彷徨った。
 月明かりを浴びると否応なく魔物の血が騒ぎ、耐え難い渇きにヒトとしての理性が消し飛びそうになる。
 体の中で暴れ狂う吸血鬼の本能と闘いながら、ただひたすら歩き続け、遂に力尽きて倒れそうになったとき、たまたま傍を通りがかったのが、赤木しげると名乗るこの少年だったのだ。

 学生服を着た、十三歳の少年。
 しげるは一目でカイジを吸血鬼だと見抜き、この部屋へと誘った。
 そしてこの部屋で、自分の特異な体質についてカイジに明かしたのだ。

 しげるは吸血鬼に血を吸われても、自身は吸血鬼にならないのだという。
 昔、吸血鬼に襲われたことがあって、その時に発覚したらしい。ごく稀に、そういう特性を持つ人間がいるのだと、しげるから聞かされてカイジは初めて知った。

 過去に自身が襲われた経験からか、しげるは吸血鬼のことについてよく調べていて、かなり詳しく知っていた。
 カイジの身の上話を聞き、しげるはいくつか推測をした。
 カイジの吸血鬼の血は父母以前、かなり古い先祖からの隔世遺伝である可能性が高いこと。
 つい最近までずっとカイジの体の奥底で眠っていたその血が、他人の血液を舐めたことをきっかけに覚醒したのだということ。

 そして、吸血鬼の血を持ちながら人間を襲うことのできないカイジに対し、しげるは己の血を与えることを提案した。
 吸血鬼にならないのだから、血を吸われても構わないとしげるはいうのだ。

 理屈はわかっても、なお人の血を吸うという行為を躊躇うカイジに、しげるはある取引を持ちかけたのだった……


ーーー


「ベッドへ行こう、カイジさん。ソファの上じゃ嫌だろう?」
 しげるはカイジに手を差し伸べ、うすく笑う。
 カイジはひどく苦しそうな顔のまま、一度は振り払ったその手をふたたび取った。



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