色魔・8(※18禁)






 カイジの意識が回復したとき、すでに辺りは暗闇に沈んでいた。
 脚を投げ出して飲み屋の前に座り込んでいたカイジは、自分がなぜこんな場所にいるのか一瞬忘れていた。
 きょろきょろと辺りを見渡して、自分の背中を預けている扉にかけられた『準備中』の札を見た瞬間、

「うっ……、うわあああっ!」

 すべてを思い出したカイジは街中に響くような大声を上げ、その扉から飛び退いた。

 オレはここで、男に、男にーーーー!
 虫酸の走る記憶に激しく頭をかきむしって、はたとカイジは気付く。

 鷲掴みにした自分の髪の色が、元に戻っている。
 何物にも染まらないような漆黒に。
 慌てて自分の身形を確認すると、精液で汚れた筈の服に、一点のシミもないことに気がついた。
 生地に顔を近づけて注意深く見てみたが、やはり汚れた形跡はなく、臭いもしない。
 中途半端にはだけさせられた服も、ちゃんと着込んでいる。
 わけが分からないながらも、カイジはほっと息をつく。

 もしかして、すべてが悪い夢だったのだろうか……?

 しかし、そんな淡い期待を粉々に打ち砕く声が、カイジの頭上から降ってきた。

「おはよう」
「ひいいっ!」

 いつの間に現れたのか、『色魔』が隣に立っていて、カイジは腰を抜かす。

「お、おお、おま、おまえっ……!」

 尻餅をついたままずるずると男から離れようとするが、男はたった一歩でカイジの前に回り込み、しゃがみこんでカイジと目線を合わせた。

「なにひとつ夢じゃねえよ。残念だけど」
 カイジの思考を読み取ったかのように、男は暢気な声で残酷極まりないことを言う。
「で、でも、髪……」
 男の言葉を信じたくないカイジは、黒く戻った自分の髪をせわしなく触りながら男に訴える。
「あんたの色は返しておいたよ」
 返す……? そんな芸当ができるのか?
「じゃあ、ふ、服は……?」
「それくらい、なんとでもできる」
 白くてきれいな化け物は、こともなげにそう言って、カイジの小さな希望を完膚なきまでに叩きのめした。

 絶望感に打ちひしがれ、カイジの目の前がぐにゃりと歪む。
 夢じゃ……なかった……。
 廃人のようになっているカイジを見ながら、男が口を開く。
「なぁ。あんたの涙、もう一度喰わせてくれねえか」
「……あ?」
 地の底を這うようなカイジの返事と対照的な、弾んだ声で男は言う。

「色のないものを旨いと思ったのは初めてだ。あんたに興味が湧いた」

 男はカイジの方へ腕をのばす。
 そして、びくりと体を竦ませるカイジの左手を取り、そっと持ち上げた。

「だからオレは、これからずっと、あんたと一緒にいることにする」
「っな……!」

 男はカイジの指先に恭しく口づけると、行為のとき頬の傷にしたのと同じように、指の継ぎ目を愛おしげに舌でなぞる。
 とんでもない宣言に、全力でツッコミを入れようとしたカイジだったが、突然の行動に息を飲み、耳まで真っ赤になって口をぱくぱくさせる。

「あ、あんなことした野郎と、なにが悲しくて仲良く一緒に生きてかなきゃいけねえんだよっ……! アホかっ、死ねっ! このヘンタイっ……!」
 詰られても男はちっともへこたれずに、むしろ不服そうな顔をする。
「色返してやったんだから、いいでしょ? あんたの『黒』だって、返すのが惜しいくらい、旨かったんだぜ?」
「恩着せがましい言い方するなっ!!」
「これからよろしくね。……あんた、名前は?」
「人の話を聞けーーっ!」

 喧々囂々と言い争う声が、狭い路地に賑やかに響きわたる。 



 そして、その日を境に、『色魔』は路地裏から姿を消した。
 それと同時に『色魔』の被害者もぱったりと出なくなり、都市伝説も次第に人々の口に上らなくなって、忘れ去られていった。
 不穏な噂が消え、街には以前の平穏が戻ってきた。

 一方で、一部の噂好きな者の間では、『色魔』のその後の噂もさまざまに囁かれていたが、

ーー『色魔』は最後の被害者と恋に落ちて、街のどこかで寄り添うように暮らしているんだとさ。めでたし、めでたし。

 ……という説が、いちばんポピュラーで巷に広まっているものだった。

 その噂は、果たして真実なのか。
 色魔は本当に恋に落ちたのか。
 そして、哀れな最後の被害者は、本当に『めでたし、めでたし』な結末を迎えたのか。
 それを知るものは、当人たちを除いては、誰ひとりとしていない。






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