その9
※流血、嘔吐注意









 男との再戦。
 当然ながら、直前の勝負の結果は引き継いだ状態での闘いとなる。
 先ほどの勝負ではカイジが二勝、男が六勝で勝敗が決したため、残り五戦中、男に一度でも負ければ、その時点で決着がついてしまう。
 それはすなわち、ここからの五戦を全勝におさめる以外、カイジに勝ちはないということだ。

「これからの勝負は、いわば温情だ。本来ならばありえない勝負だ。
 感謝するんだな、犬くん。俺と、命知らずのご主人様に」
「御託はいい。とっとと始めようぜ」
 静かなカイジの声に、男の顔から笑みが消え失せた。
 男を見つめるカイジの瞳は、先ほどまでとはうって変わり、不気味なほど凪いでいる。
 しかしその奥には、激しい闘気が確かに見え隠れしていた。
 まるで、高温で静かに燃える青い炎のように。

 男は鼻白んだような顔になる。
「さすが畜生というべきか……こういう時の口のきき方も知らねえらしいな」
 それから唇を歪めて笑い、カードの束を手に取った。
「まあ、いい……どのみち一時間後には、その生意気な口も二度と叩けなくなるだろう……せいぜい今のうちに、遠吠えておくがいいさ」
 
 
 
 かくして、最後の闘いの幕が上がった。
 高飛車な態度を崩さない男を裏切るように、初戦から、勝負の風向きは明らかに男からカイジへと移りつつあった。
 ありとあらゆる感覚を限りなく鈍らされた状態で、五連勝しなければならないというプレッシャーを跳ね除けるように、カイジは驚くほどの粘りを見せる。
 まともに闘うことすらできなかった先刻と比べると、目を見張るような冷静さ。
 カードを透視するような推理力と判断力。
 どんなに不利な状況下に置かれようとも、途切れない集中力。
 そしてなにより、自分の判断を信じ、ひたすらそれに賭けることのできる強い魂。
 
 さながら、断崖に追い詰められた獣が、死にもの狂いで自分より大きな敵に飛びかかるがごとく、この土壇場、すれすれの状況で、カイジは着実に勝利への道を切り開いていく。
 
 まず、一戦目をカードの引きの良さに後押しされ、五分もかからないうちにものにすると、そのままの勢いで第二戦、第三戦も勝利をおさめた。
 
 最初こそ余裕をかましていた男も、ここまで勝ちを重ねられると流石に驚愕を隠せない。
 この、修羅のような男は、本当にさっきまで闘っていた負け犬と同一人物なのか?
 犬の感覚を狂わせるにおいと音は、断じて弱まってなどいないはず。
 その証拠に、カイジの喉からは木枯らしのような鋭い音が絶えず鳴っており、脂汗にまみれた顔面は蒼白という言葉では言い表せないほど、血の気のいっさいが抜け落ちている。
 椅子に座っているのすら苦痛であるに違いないのに、どうしてか、見るからにボロボロなカイジの姿は、今まさに窮地に立たされている者のそれには到底見えなかった。

  端から違いすぎている互いの勝利条件に慢心した結果、男に隙が生まれていたことは否めない。
 しかし、それだけではどうしても、この急転の説明がつかないのだ。
 
 赤木しげるの命が賭けられたあの瞬間から、カイジは明らかに変化した。
 あたかも、その一挙手一投足に、ふたり分の命の重みがずっしりと乗っかっているかのように、カイジの手は微塵もぶれない。揺るがない。
 
 三連続で得た勝利に露ほども表情を動かさず、次の勝負のため手札を集めるカイジに、男はギリギリと歯噛みした。
 
 このままでは、負ける――? 俺が? このクズに?
 そんなふざけた奇跡、起こっていいはずがない。

 男は怒りにぶるぶると震える手を机の下に伸ばす。
 そこに隠されているスイッチをいっさい見ないまま、慣れた手つきで操作し、カイジに気取られないよう、ニタリと笑った。

(俺を怒らせたのが運の尽きだったな、犬くん……果たして、いつまで正気を保っていられるか……見物だなぁ?)

 なにも知らずにカードを切るカイジを、薄気味悪い笑みを浮かべて男は見守っていた。
 
 




 第四回戦。
 序盤から、カイジは相変わらず快調な滑り出しで、男のカードを次々に言い当て、手札も順調に増やしていく。
 しかし、ターンを終えるごとに、雲行きが次第に怪しくなり始める。
 
 さっきまで、気合と精神力でもってあやまたずカードを引いていたカイジの手が、ここへきてまた、テーブルの上で微動だにしていないはずのカードの山を、手探りするようにさまよい始めたのだ。
 カイジの変化に気づき、男は口許を撓める。
「おいおい……さっきまでの調子はどうした? まるでかすりもしていねえが」
 白々しい言い方に、カイジはぐっと唇を噛む。
(くっそ……っざけやがって……ッ)
 明らかに、異臭と音が強くなってきている。
 一度、持ち直したはずの視界が、また激しくぶれ始めている。
 耳と鼻から進入し、たえず脳味噌をいじくり回されているような不愉快さ。
 このままこれを続けられたら、確実に気が触れて死ぬと言い切れるほどの、もはや拷問と呼ぶべき苦痛。
 それに伴い、運を引き寄せる力も急に弱まったように、カードの引きも悪くなり、相手のカードをオープンさせることができても、次のアタックに繋げられるような有力な情報を得ることができない。

 それでも、カイジは気力を振り絞ってカードを引き、果敢にアタックを続ける。
 そして、長い苦闘の末、互いに手札があと一枚、というギリギリのところで、どうにかこうにかアタックを成功させ、勝利することができた。

 苦い顔で舌打ちする男を見ながら、呼吸をなんとか整えようとする。
 あと一戦。
 ついに、勝利に手の届くところまできた。

 だがここで、完全に勝負の風向きが変わってしまったことを、本能的にカイジは察した。
 ここまでの連勝は、いわば総動員した自分の覇気が磁場となり、強引に引き寄せたようなもの。
 それが萎えつつある今の状況で、自分に運など向いてくるはずがない。

 流れた汗が目に入り、涙のように目端を流れ落ちる。
 砂嵐のようにノイズのかかった視界の中で、男がなにか言っている。
 今にも飛びそうな意識の中、カイジは密かに、ある決断をした。

 意志を定め、全神経を舌に集中させる。
「な、ぁ……すこし、席……、外させて、くれ……っ」
 たったそれだけ言うのに、全身の空気をすべて使い切ったような疲労感に襲われる。
 男の返事を待たずに、カイジの体がぐらりと傾ぎ、椅子から転げ落ちた。

 そのまま気を失いかけたが、足を踏ん張ってゆらりと立ち上がり、部屋の出口に向かって、一歩、また一歩と歩き出す。
 背中に浴びせかけられる男の怒声に、アカギが静かな声でなにか言い返すのが聞こえ、それから男の声がぴたりと止んだ。
 朦朧としたまま、カイジはずるずるとその場をあとにする。


 先ほどまでいた、診察室に戻る。
 女性が裸のまま、埃の積もった部屋の隅に丸まって眠っている。
 相変わらず鼻が腐り落ちそうな悪臭だが、気が狂いそうなさっきの部屋よりはずっとマシだ。
 ようやく、まともな呼吸ができそうだった。

 汚れた壁に手をついて、何度か深呼吸し、脳に酸素を取り込む。
 最悪な気分に変わりはないが、視界のぶれは多少、落ち着きをみせた。
 足を引きずりながら、カイジは部屋の中央へと進む。

 人型のシミのついたベッド。その傍らにあるサイドテーブルの上で、さまざまな医療器具が冷たく光っている。
 カイジはつと手を伸ばし、その中にある、鋭い刃を持ったメスを掴んだ。

 その刃先には、誰のものとも知れない、赤黒く乾いた血液がこびりついている。
 これから自分がしようとしていることを思い、カイジはまた強烈な吐き気に苛まれる。
 ぐっと力を込めて手のひらで口を押さえると、指の間から吐き出した液体が溢れ、手の甲を伝う。
 荒くなった呼吸を抑えつつ、吐瀉物を受け止めた掌を見れば、そこを濡らす液体は黄色い色をしていた。

 汚れた手を額に当て、カイジは葛藤に呻く。

 本当にやるのか、自分は。
 あのときのような痛みを、もういちど体に刻むのか。

 視界がぐにゃりと歪む。
 こんなの、正気の沙汰じゃない。
 でも、やらなければ……アカギの命が。

 カイジは迷いを振り切るように、ぶるぶると強く頭を振る。

(やらなきゃ、どの道死んじまうんだ……オレも、アカギも……!)

 最悪、自分はどうなったっていい。
 でも、アカギが死ぬのだけはダメだ。
 どんな手を使っても、ここから無事に脱出させなければならない。

 そのためには、もうこうする以外、道は残されていないんだ。
 自分の体を、惜しんでなどいられない。

(アカギ……っ!)

 カイジは祈るようにその名を心の中で叫び、震える手でメスを握り直す。
 恐怖で心臓が暴れる。見開いた目が血走る。
 溺れたような呼吸を繰り返しながら、カイジは頭の上にある犬の耳ーー
 血の通った、正真正銘自分の体から生えている黒い耳に、冷たい刃先を、力いっぱい振り下ろした。

 

ーーーー

 ガタ、と音をたてて 床に崩れ落ち、ぴくりとも動かなくなったカイジを見て、男は眉を潜めた。
(なんだ……死んだのか?)
 内心、舌打ちする 。
 装置の強度を上げ過ぎたか。
 ここでカイジに死なれたら、金が手に入らなくなってしまう。
(しかしまあ……、万に一つでも、この馬鹿が勝利する可能性が出てきた今、ここで殺してしまうのも悪くない……)
 そう自分を納得させ、男が立ち上がりかけた瞬間、カイジがむくりと起き上がった。
 カイジは半分床に這うようにしながら、ずるずると部屋の出口へと向かっていく。
「おいっ……! てめぇ、どこへ行くっ……!」
「外の空気くらい吸わせてやりなよ」
 勝手なカイジの行動に怒鳴りつける男に、落ち着きはらった声がかけられた。
 ギロリと睨みつける男の視線を、アカギは壁にもたれたまま、まっすぐに見返す。
「この部屋、なにか仕掛けしてあるんでしょ。この人の不利になるような」
 この人、と言いながら、アカギはカイジを横目で見る。
 ふたりの会話が耳に届いていないらしいカイジは、その間にもふらふらと、だが着実に歩を進め、部屋の外に出ようとしていた。
 アカギは男に目線を戻し、続ける。
「そんなことまでしておいて、ほんの少しの自由も認めないなんて、卑小すぎるんじゃないの」
 静かに笑われ、男はギリ、と歯噛みする。
 男とアカギが睨み合っている間に、カイジは出口にたどりつき、部屋の中から姿を消した。

 苛立ちをぶつけるように、男は椅子にどかりと腰掛ける。
 憤りを静めるように大きく息を吸うと、ポケットから煙草を取り出し、一本咥えた。
 火を点け、深く吸い込む。
 煙を吐き出し、気を取り直したように、男は煙草でアカギを指した。
「ふん……それにしても、赤木君。君みたいな男が、あんな犬のために命まで張るなんてな。まさか、気でも触れたのか?」
 反撃とばかりにせせら笑ってみせる男だが、アカギはそんな挑発には乗らず、ただ淡々と言い返す。
「オレは勝つ方に賭けた。ただそれだけのこと」
 ぴくり、と男の頬がひきつる。
「なにを言い出すかと思えば……俺が負けるだと? ありえない」
 男は引き笑いを漏らしたが、その顔は強張っていた。
「赤木しげるも、ただの人間ってことか……あの犬への情に流されて、冷静さを失っているんだろう? え?」
 徐々に烈しくなっていく男の口調にも動じず、アカギは男を見据えたまま、口を開く。
「あんたは、もう気がついているはずだ。自分が脅えを抱いていることに」
 びくり、と男の肩が動いた。目線が一瞬、激しく揺れる。
 それは、男が初めて見せる、はっきりとした動揺だった。
 「俺が、あんな奴に脅えているっていうのかっ!? 戯れ言も大概にしろっ!」
 虚勢を張るように大声を出す男からは、先ほどまでの余裕が完全に消え失せていた。
 まるで、仮面が剥がれ落ちたのような豹変ぶりだった。
 怒りか、恐れか。あるいはその両方で、男の肩が大きく震えている。
 アカギは鋭い双眸に、ひたすら男の姿を映したまま、微動だにしない。
 男がさらになにか言い募ろうとした瞬間、獣の断末魔のような悲鳴がふたりの耳に飛び込んできた。


「……なんだ? なにが起こった?」
 尋常ではないその声に、男は思わず立ち上がる。
 それは明らかにカイジの叫び声だったが、アカギは顔色ひとつ動かさず、平然と立っている。
 廊下にまで反響し、長く尾を引くように響き渡った悲鳴はしばらくして止み、水を打ったような静寂が訪れた。
 訝しげに悲鳴の聞こえた方向を睨む男の耳に、やがて、なにかを引きずるような音が聞こえ始める。
 その音は徐々に大きくなり、男とアカギのいる部屋に近づいてくる。
 やがて、部屋の入り口の壁にすがりつくようにして、カイジが姿を現した。

 体全体で呼吸しながら、まるで亡霊のような足取りで、部屋の中に入ってくる。
 自分には目もくれず、隣を通り過ぎていくカイジに、アカギも声をかけることなく、その背中をただ見送る。
 段々とカイジがテーブルに近づいてくるにつれ、その異様な姿が明らかになり、男は驚愕に目を見開いた。

 赤黒い体液で染まった顔面。
 流れる血はこめかみを伝い、顎の先からぽたり、ぽたりと落ちている。
 カイジが歩いたあとに、転々と続いている赤い道標。

 わずかにたじろぐ男の前で、カイジは倒れ込むようにして椅子に座った。
 机の上にも落ちる赤い滴の出所を目で辿り、男は息をのむ。

 耳が、ない。
 部屋を出ていくときには確かにあった、カイジの犬耳が消えている。
 自分の目を疑い、耳があった場所を凝視すると、そこだけ異様に重たく血に濡れた髪の中に、ズタズタになった黒い襤褸切れのようなものが、辛うじてぶら下がっているのが見て取れた。
 完全なる立ち耳だったはずのカイジの耳が、寝耳に変化したようにも見える。
 そこがどうやら、血の出所らしい。

 男ははっとした。
(こいつまさか……自分で耳を……!?)
 人間のものではないとはいえ、神経の通っている体の一部だ。
 当然、痛覚だって備わっている。
 それを自ら潰すなど、気が狂っているとしか思えない所行だ。
(信じられねえ……こいつ……気狂いかっ……!)
 こんな真似をしたカイジの狙いは決まっている。
 聴覚の遮断。
 血のにおいによる、嗅覚の麻痺。
 自分で自分の耳を潰すことで、カイジはそれを成し遂げたのだ。

 カイジは深くうつむいたまま、腹の底から深く長く息を吐き出した。
 それから、すっと顔を上げて男を見据える。
 潰れたトマトのように血でぐちゃぐちゃになった顔の中で、ふたつの瞳だけが一等星のように強く光っていた。
 その目は断じて狂ってなどおらず、むしろはっきりとした理性と知性、それから覇気が感じられた。

 男は初めて、カイジに戦慄した。
 だが、テーブルにぐりぐりと煙草を押しつけて消し、平静を装う。
「おいおい、きたねえなぁ……机が汚れるじゃねえか」
 罵る男を無視して、カイジは口を開く。
「さあ……始めようぜ。最後の一戦……」
 逆流した胃酸に喉を焼かれ、悲鳴を上げすぎたせいで、その声は掠れ、ひどく聞き取りにくい。
 男は額に青筋をたてたが、顔を歪めて笑みをつくると、カードの束を手に取った。
「わざわざ死にに戻ってきたわけか……愚かな。まぁしかし、逃げ出さなかったことだけは誉めてやる……」


 すこし青ざめた顔で、乱暴にカードを切る男の姿を、カイジは冷静に見つめる。

 聴覚と嗅覚の遮断も当然だが、耳を潰すという行為でのカイジの狙いは、それだけではなかった。
 はっきりとした痛みによって、鈍らされた感覚を叩き起こす。
 なによりそれが、いちばんの狙いだった。
 ほんの少し空気の入れ換えをしたくらいでは、カイジの感覚は戻りそうになかった。
 よしんば回復したとしても、またこの部屋に戻れば、気の狂いそうなにおいと音に苛まれ、まともに闘えるはずもない。

 だからこそ、自らの体を傷つける必要があった。
 聴覚は完全に失われたが、勝利を手にするために必要な代償だからこそ、カイジはためらわなかった。
 ずたずたに切り裂いた耳が、じくじくと熱く痛めば痛むほど、カイジの感覚は冴え、意識もはっきりと定まってくる。

 もう、自分を悩ませるにおいも音もなくなった。
 無音の世界。噎せ返るような、自分の血のにおい。
 極端に狭まった世界の中で、カイジの心は今までになく静かに凪いでいた。
 潰した耳は痛いなんてもんじゃなかったが、それと引き替えに、まるで生まれ変わったような気分を手に入れた。
 耳とともに、雑念をすべて断ち切ったかのようだ。
 追い風が確かに、背中を押すのを感じる。

 いよいよ最終戦。
 手札を並べ終えたカイジは、山へと手を伸ばした。
 自分の手許に、勝利を引き入れようとするように。




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