その6

※カイジの内面犬化が進んでます










「すまねぇが、この先は今日の博奕を打つ人間だけしか入れねぇ。付き添い人は外で待ってな」

 案内役の頑健な男の言葉に、アカギは眉ひとつ動かさなかったが、付き添いであるカイジは絶望的な顔をして「そんな……」と呟いた。

 カイジは不安げな顔で、目の前の黒いドアと、隣に立つアカギを交互に見る。
「……アカギ」
「クク、なんだその情けねぇツラ」
 アカギはカイジを見て笑ったが、カイジの曇った表情は晴れない。

 一向にこの場を離れようとしないカイジに業を煮やし、男はカイジの肩を強く押した。
「さあ、行った行った」
「痛、ッ……!」
 押された肩の痛みに、カイジは喉奥で唸った。
 男をギロリと睨み付ける。
 男はそんなもの無視して、アカギに向き直る。

「おら、さっさと来な。兄ちゃん」
 そう言って、男が乱暴にアカギの腕を掴んだ瞬間。
「テメェっ、なにしやがるっ……!」
 火が点いたように、カイジは男に吠え掛かっていた。
 さっき自分の肩を押されたときとは比べ物にならないほど、はっきりと怒りを露にするカイジに、男は面食らい、僅かに怯む。
「……んだコイツ」
 掴んだアカギの腕を離すと、汚いものを見るような目でアカギとカイジを見る。
「お前ら、デキてんのか? 気色悪ぃな」
「んだとコラ! もっぺん言ってみやが……」
「カイジさん」
 アカギの静かな声に遮られ、カイジの怒声がぴたりと止んだ。
 ぜいぜいと息を荒げるカイジの頭を、フードの上からぽんと叩き、アカギは表情を変えずに言う。

「行ってくる」

 たったそれだけ。

 その一連の動作だけで、カイジの全身から発せられていた怒気が嘘のように凪いだ。
 その表情からは怒りがすっぽり抜け落ち、不安でたまらないといったようなさっきの表情にとって代わる。

 男は呆気にとられてその様子を眺めていたが、
「……行きましょう」
 アカギに促され、舌打ちしつつドアノブに手をかける。
 じっとアカギを見詰めるカイジに、男は、
「ホモ野郎」
 と吐き捨てたが、その言葉はもはやカイジの耳には届いていないようだった。
「アカギっ、必ず帰ってこいよ……!」
 男と共に黒いドアの向こうへ消えていく背中に呼び掛ける。
 だが、アカギは振り返らなかった。

 完全に閉まったドアの前に、カイジは暫くの間立ち尽くしていた。







 薄暗い室内から出ると、外の眩しさに目が眩んだ。
 カイジはとぼとぼと近くの川原を歩き、草むらに座り込む。

 頭をすっぽり覆うフードを落とすと、黒い犬耳が露になる。
 周囲に人気はまばらだし、丈の高いヨシの群れがカイジの姿を隠すので、誰かに見られる心配はない。
 煩わしい覆いから解放された耳をぴくぴくと動かし、カイジは自分の腕を枕に仰向けに寝転ぶと、抜けるような青空を見上げた。

 非合法の裏カジノ。アカギがどんな相手と戦うのか、カイジには知ることすらできなかった。

 今ごろ、勝負の只中にいるであろうアカギのことを考えると、胸に靄がかかったような暗い気持ちになり、犬の耳がしおしおと下がっていく。

 アカギが負けるはずがない。
 そうは思っていても、不安でたまらないのだ。
 アカギが自分の見ていない場所で、危険な博奕を打っているという事実に、身を切られるような気持ちになる。

 本当は、アカギと片時も離れたくない。
 置いていって欲しくない。
 ずっと一緒にいたい。

 カイジは自覚していた。自分の中の『犬』の部分が、どんどん大きくなっていること。
 それに併せて、アカギを飼い主として盲目的に慕う気持ちも強くなっている。
 ああ、これは『犬』の気持ちだな、と頭では理解できても、もうコントロールしようがないのだ。

「一体どうなっちまうんだよ、オレ……」

 口に出したら気が紛れるかと思ったが、決してそんなことはなかった。
 本来なら、どんどん犬に近付いている自分の顛末のことを心配すべきなのだ。
 それなのに、カイジの頭は今闘っているアカギのことでいっぱいで、それ以外のことなどとても考えられない。

 てんとう虫が一匹飛んできて、カイジの犬耳に止まる。
 ぱたりと耳を動かしてそれを追い払い、カイジは空を眺めてアカギのことを考え続けた。











 いつのまにか、うとうとしていたらしい。

 夢うつつのなか、よく馴染んだ匂いが、不意にカイジの鼻先を掠めた。
 すん、と鼻を鳴らしたあと、カイジはぱちりと目を開いて弾かれたように起き上がった。

「アカギっ……!」

 匂いの流れてきた方向にその姿を見付け、カイジはきらきらと目を輝かせて嬉しそうな笑顔を見せる。

 まだカイジから十メートルは離れた場所にいたアカギは、少し驚いたような顔をして立ち止まったが、ニヤリと笑ってカイジに近づいてきた。

「すっかり犬が板についてるな、カイジさん」

 くつくつと笑いながら、アカギはカイジの隣に座る。
 カイジはうつむき、険しい顔で唇を噛んだ。
 アカギに馬鹿にされ、腹をたてたのではない。
 ずっと待っていたアカギに、飛び付きたくて飛び付きたくてうずうずしている自分自身を、必死に押さえ込んでいるのである。

 ばっさばっさとベンチコートの下のしっぽを振りながら、カイジはアカギに問う。
「勝ったんだな」
「ああ」
「どこも怪我してねえみたいだな……」
 アカギの体を注意深く検分したあと、カイジは安堵したようにほっと息をつく。
「よかった……」
「もうひとつ、朗報があるぜ」
 アカギは懐から一枚の写真を取りだし、カイジに見せた。
「! こいつは……!」
 カイジの獣の毛がざわりと立ち上がった。

「見覚えがあるみたいだな」

 忘れるはずがない。
 あの夜、ギャンブルをして敗けた男。
 カイジを今の姿にした張本人が、写真の中で不敵に微笑んでいた。

「昔、ある企業に飼われていた、イカれた科学者だ。今は企業から見捨てられて、どこかに身を潜めながら、あんたみたいな金に目の眩んだ連中を使って実験をしてるらしい」
「……ってことは、被害者は他にもいるってことなのか?」
「数人の人間が、その男と会話する姿が目撃されている。しかし全員がその後、行方不明になっていて、未だ見つかっていない」

 耳と尾を緊張させるカイジに尻目に、アカギは淡々と続ける。

「こいつとの勝負をヤクザがとりつけた。一週間後、あんたが以前、勝負した場所で再戦だ」

 それだけ喋ると、アカギはカイジの隣に仰向けに寝転がり、目を閉じる。



 
 いよいよか。

 写真を持つカイジの指に、強く力が入る。

 次、こいつとの勝負に勝てば。

 勝てば……


 そこまで考え、カイジの心にふっと影がさした。
 アカギが無事戻ってきた安堵と引き換えに、己の身の上に対する不安がじわりじわりと甦ってきたのだ。

 もし、こいつに勝ったとして。
 果たして本当に、自分はもとの姿に戻ることができるのだろうか?

 カイジには、不審なことがひとつあった。
 それは、自分をこんな荒唐無稽な姿にした男の側から、なんの接触もないこと。
 もし、自分を何らかの実験台にしたのなら、その後の経過を観察しようと動いてもおかしくはないはずだ。
 しかし、それがない。
 つけられているとか、誰かに監視されているといったこともない。そんなことがあれば、「犬」であるカイジが真っ先に気付くだろう。
 カイジの五感の鋭さは、いまや人間より動物に近くなってきている。

 そこから推察すると、カイジに施された実験は、おそらく失敗に終わったのだろう。
 だから、追わない。相手にとってカイジは無価値であり、観察する必要がないのだ。

 カイジはいわば、大金という餌で釣ったモルモット。生き残ったって死んだっていい、使い捨ての存在。
 そういう人間を騙し討ちのようにして実験台にしなくてはならなかったということが、この実験の不確実さを現している。

 そして、もし失敗なのだとしたら。
 もとに戻る方法が、本当にあるかどうかすら危うい。

「もし、戻れなかったら……」

 言葉にすると、 暗澹と気分が沈む。耳が垂れ、しっぽもしんと動かなくなる。

 すると、隣にいるアカギが目を閉じたまま、面倒くさそうに頭を掻いた。
「今そんなこと考えたって、どうにもならないでしょう」
 カイジは暗い目でアカギを見る。
 アカギの言うことは正論だ。今更そんなことを憂慮して何になるだろう。手がかりはあの男ただひとりなのだから、全力で闘って勝ちをもぎ取るしか道はない。

 しかし正論だからこそ、カイジはアカギの無神経さに腹をたてた。
 そんな風にきっぱり割り切って考えられたら、どんなにいいか。
 自分の身にこんな馬鹿げた災難がふりかかっていないからこそ、お前は気楽にそんなことを言えるんだ、と。


 アカギは片目を開け、浮かない表情のカイジを見ると、鼻を鳴らして笑う。
 そして、微風に乗るような軽い口調で言った。
 
「まぁ……戻れなかった時は、オレがあんたを飼ってやるさ」

 カイジはわが耳を疑った。
 思わず、アカギの顔を凝視する。アカギは相変わらず目を瞑って、天を仰いだままだ。

 およそ、アカギらしからぬ台詞だった。本気で言っているとは、到底思えない。
 大方、うじうじと落ち込まれるのが鬱陶しくて、カイジの気持ちを無理やり引っ張りあげるために言ったのだろう。

 だが、その一言は、まるで魔法のようにカイジの心を軽くした。
 萎れた耳がゆっくりと立った。しっぽが左右に揺れた。

 これは自分の本心ではない。犬の気持ちが喜んでいるだけだ。
 カイジにはそれがわかっていたが、気持ちが前向きになったのは確かだ。

 どんなことがあってもーーたとえ戻れなくても、アカギと一緒なら大丈夫だ。
 そう思うと、体の底から力が湧いてくる。

 だから、今はこれでいい。
 犬の気持ちに誤魔化されてしまえ、とカイジは思った。

 アカギは草の上で静かに目を閉じている。
 疲れて眠ってしまったのかもしれない。
 その顔を見ながら、カイジは心の中で

(おまえだって、)

 と呟く。

 すっかり犬が板についている、とアカギはカイジを笑ったが、アカギだって本人が気付かないだけで、すっかり飼い主が板についているのだ。
 ほんの少しの動作や、たったひとつの言葉で、カイジの気分を無意識のうちに操ってしまうほど。

 アカギの心地よさそうな寝顔を見ていると、カイジにも眠気が戻ってきた。
 アカギの隣に寝転び、そよそよと頬を撫でる風を感じながら、カイジは目を閉じた。


つづく?



[*前へ][次へ#]

6/10ページ

[戻る]