その5
※カイジのメンタル犬化が進んでます






 カイジに犬耳としっぽが生えてから、三ヶ月が経とうとしていた。
 アカギはカイジをこんな姿にした男の調査と引き換えに、ヤクザの代打ちを続けていたが、どうやら調査はひどく難航しているらしく、ふたりは未だに有力な手懸かりはおろか、男の素性すら知ることができなかった。



「あんた本当に、なんにも覚えてねえのか? 勝負に負けた後のこと」

 代打ち帰り、夜の繁華街。
 隣を歩いているアカギにそう問いかけられ、カイジは首を横に振った。

 今までに、何度も同じ問いをアカギからかけられたことがあったが、こんなにも行き詰まった状況下で、それも無理はないことだった。

 しかし何度聞かれても、カイジにはどうしても思い出すことができないのだ。男に負けてから、この姿で目覚めるまでの間のことを。
 ほんの些細なことでも、それが突破口になってこの状況を打破できるかもしれないのに、それができない自分自身にカイジは苛立っていた。

 アカギは大きくため息をつき、それきり黙る。

 カイジはアカギの表情をちらちら窺い、肩を落とした。
 ベンチコートの下に隠れているカイジの犬耳としっぽが、しおしおと下がっていく。

 アカギ自ら申し出たこととはいえ、こんなに長い間、同じ組の専属で代打ちをするなんて、アカギの本意であるはずがない。
 アカギだって、まさかこんなに長引くとは思っていなかっただろうーーそれを思うと、カイジは暗く心が沈むのだ。

 アカギに迷惑をかけるのが申し訳なくて、胃がキリキリ痛む。自分が嫌で嫌で仕方なかった。
 アカギのため息を聞くのが、心底怖かった。

 しかし、カイジがそれよりも恐怖を感じているのは、そんな風に思う自分自身に対してだった。


 最近になってカイジは、アカギに嫌われることをとても恐れるようになっていた。
 まるで、主に嫌われるのを怖がる飼い犬のように。

  少し前までは、ここまで落ち込むことなどなかったのに。
 ーー自分は、確実に犬に近づいてきている。外見でなく、内面から。

 それがわかっているから、なおさらカイジは落ち込むばかりだった。


 浮かない気分のまま歩いていると、一人の男がふらりと路地から歩き出てきて、カイジとアカギの前に立ちはだかった。

 小柄な、爬虫類めいた風貌の男で、くたびれた茶色のジャケットに身を包んでいる。
 カイジは、男の顔に見覚えがあった。数日前、代打ちでアカギがこてんぱんに負かした男だ。

 端から力の差は歴然で、正攻法では絶対に勝てないと判断した男は、途中からイカサマを仕込んでどうにか勝ちをもぎ取ろうとしてきた。

 しかし、それに気づいたアカギが男の何倍も鮮やかなイカサマをきめて、結局、圧勝した。
 一億近い負け分を借金として背負わされ、目を血走らせ歯軋りしていた男は、最後までアカギのイカサマには気がついていないようだった。
 それくらい、アカギの手並みは見事だった。


 男は、落ち窪んだ目でぎょろりとアカギを睨み上げる。
「オレのこと……覚えてるか?」
 剣呑な雰囲気などお構いなしに、アカギは緩く首を傾げる。
「さぁ……誰だっけ、あんた」
 男の顔にさっと怒りの色が差し、カイジは慌ててアカギに言う。
「アカギっ……! こいつ、この間の代打ちの時の……」
「ああ……そうだっけ」
 ようやく思い出したらしく、アカギは曖昧に相槌を打つ。
 小馬鹿にしたようなその態度に、男の声が大きくなる。
「てめえっ、忘れたとは言わせねえぞ……! 小汚ねえイカサマ仕込みやがって……!」
「あらら……いまさら気がついたんだ。でも確か、先に仕掛けてきたのはあんたの方だったでしょ」
「うるさいっ! もう一度! 正々堂々とオレと勝負しろっ! 真っ向勝負なら、絶対に! 負けるわけがないんだっ!」
 男は唾を飛ばして怒鳴る。
 それが虚勢に過ぎないということは、アカギにもカイジにもすぐにわかった。本当にそう思っているなら、前回の勝負のときイカサマなどするはずがない。

 肩で息をする男を一瞥し、アカギは
「……残念ですが、気分じゃないんで」
 そう言うと、男の側をあっさり通り過ぎていく。

 激情で燃えるような男の顔を気にしつつも、カイジがアカギのあとについて歩き出そうとした、その時。

「返せよ……オレの金……」

 低く、男が呟いた。
 刹那、カイジの尻尾に緊張が走り、フードの下の耳がぴんと立つ。

「アカギっ、後ろっ!」
 振り返るとほぼ同時に、鋭く叫ぶ。
 緊迫した声にアカギも振り返り、血走った眼で一直線に突進してくる男を、身を翻して躱した。
 男が握りしめたナイフは大きく唸りながら空を裂き、アカギの腕を掠める。
 薄いシャツが切り裂かれ、アカギの右前腕に鮮やかな赤い線が走る。
 まさか避けられると思っていなかったらしい男は、そのまま勢いよくつんのめり、大きく隙が生まれた。
 アカギがそれを見逃すはずがない。鋭い目が猛獣のように光った。


 
「あんたのそれ、役に立つな」
 体中ボコボコにされ白目を剥いて気絶している男の様子を、眉を潜めて窺っているカイジに、アカギはそう話しかけた。
「『それ』って、なんだよ?」
 言いながらカイジはアカギを見る。

 そこで、アカギの右腕から滴る血に気がつき、目を見開いた。

「あんたの、犬の感覚? 嗅覚? ってやつが……さ……」
 言い終えぬうちに、カイジに右腕を強く掴まれ、アカギは思わず口をつぐむ。

 赤い血でべっとり濡れた傷口を鬼気迫る顔つきで見て、カイジはぼそりと言った。
「怪我してるじゃねえか……」
「べつに。大したことない……」
 大袈裟すぎるカイジの反応に肩を竦めたアカギだが、次の瞬間、カイジの行動に目を見張った。

 カイジはアカギの腕をそっと持ち上げ、そして。
 躊躇いなく、開いた傷口に唇を寄せたのだ。

「カイジさん、まて」
 咄嗟にアカギが投げた言葉に、カイジの動きがぴたりと止まる。
 アカギの傷を舐めようと舌を伸ばしたまま、カイジはしばらく固まっていた。

 クラクション。酔っぱらいの笑い声。喧騒。
 賑々しい街の音が、カイジの犬耳を通りすぎていく。

 しばらくして、カイジははっと我にかえり、そろそろと舌を引っ込める。
「うう……」
 ひと声、そう唸ったあと、ヘナヘナと脱力するようにしゃがみこんだ。
 はずみで、ふわりとフードが落ちる。

「カイジさん」
 下がりきった黒耳を見下ろしながらアカギが呼びかけると、負け犬じみた呻き声が返ってくる。
「くそ……、なんなんだよ、これ……こんなん絶対、オレじゃねえ……」
 どうやら、アカギのーー飼い主の怪我に動揺して、カイジの『犬の部分』が暴走したらしい。

 カイジは、激しく落ち込んでいるようだ。
 こうなると、立ち直るまでが長い。
 それを経験で知っているアカギは、面倒くさそうにため息をつく。
 すると、アカギのため息に反応して犬耳がぴくりと動き、カイジががばりと顔を上げた。

「アカギっ……お前もう、怪我すんなよっ……! 絶対っ、すんなよっ……!」

 泣いているような、怒っているような、複雑な表情でカイジは怒鳴る。
 これ以上犬に近づきたくないからそんなことを言うのか、それとも、飼い主のアカギが心配だからそんなことを言うのか。
 カイジはもはや、自分でも自分がよくわからなくなっていた。


『二度と怪我するな』なんて、どう考えても無理な話だったが、カイジがあまりにも必死なので、アカギはとりあえず頷いておいた。
 すると、カイジは犬耳をぴくぴくと動かし、据わった目で、何度も何度も念押しする。
「絶対っ……、絶対だぞっ……!」
「……指切りでもする?」
「するかっ……!」
 アカギはクスリと笑うと、カイジに手を伸ばす。
 それだけで耳がまっすぐに立ち、しっぽが揺れてしまうのにげんなりしつつも、カイジはアカギの手をつかみ、立ち上がった。


つづく?



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