その10






 人気のない公園のベンチに腰掛け、カイジは空を仰いだ。
 まだ星は光っているが、確実に朝に向かいつつある空の色。
 澄んだ夜の空気を胸いっぱいに吸い込んで、暫し目を閉じる。

 それから、目を開き、自分の手を開いたり閉じたりしてみる。
 体の中に燻る勝負の余韻が、カイジの手を今もなお、小刻みに震わせている。
 つい先ほどまで繰り広げていた死闘の熱さを胸の中で反芻し、カイジは武者震いした。



ーーーーー



「こんなのは、嘘だ」

 カイジとアカギ、ふたりが命を賭した勝負。
 その最終戦。
 激戦の末、男を手札が残り一枚というところまで追い詰め、最後のアタックに挑んだカイジの宣言した数字を聞いた男は、そう、ぽつりとそう呟いた。
 顔からいっさいの表情を消し、カイジの苦手なあの、昏い穴のような瞳でぶつぶつと呟く。
「……こんなこと、あっていいはずがない。俺にはまだ、やるべきことが山積してるんだ。オマエみたいな駄犬の命なんかよりずっとずっと崇高な使命なんだ。だからここで俺が負けるなんてなにかの間違いだ。そうにちがいない。そうだろう? なぁ、」
 喋っているうち、男はどんどん感情的な口調になっていく。
 そして突然、頭を激しく掻きむしり、血走った目で叫んだ。
「オマエみたいな畜生風情にっ! 俺の研究をやめさせる権利などあるはずがないっ! そうだろう!」
 吼えるようなその絶叫は、しかし当然、聴覚を失っているカイジには届くはずもない。
 過呼吸を引き起こしたようにせわしなく速い呼吸をする男に表情を動かさぬまま、カイジは口を開く。
「オレの勝ちだ。潔く、負けを認めろっ……!」
 掠れきってはいるが強い声で、カイジが恫喝したその瞬間、男の体がびくんと痙攣した。
「負け……だと……? この、俺が……?」
 弱々しく震える声で呟く男の手から、最後の手札が滑り落ちる。
 そのカードの数は、カイジの宣言したのと同じ数だった。

 まだ信じられないというような目つきで最後の手札を凝視しながら、男は椅子がガタガタと動くほどの激しさで貧乏揺すりをし、折れそうなくらい歯を食いしばる。
 得体の知れない怪物じみて見えた勝負の時とは打って変わって、男は急に老けたようになり、その姿はカイジの目にとても矮小に映った。
 その様子に、カイジはなぜか安堵を覚えた。
 この男も、人間なのだ。
 敗北を認めがたくて理不尽に憤り、自分の顛末に脅えて震える。
 少なくとも、あの暗い穴のような瞳よりは、百万倍人間らしい表情だった。
「約束通り、こいつはいただくぜっ……!」
 そう言って、カイジが錠剤を掴んでも、男は深くうなだれたまま、身動きしなかった。
 まるで魔法がとけたかのように、ただのくたびれた中年男に戻ったその姿は、哀れですらあった。




ーーーーー




 ふっ、と、よく知ったにおいが鼻先を掠めて、カイジは辺りを見渡す。
 女性を警察に送り届けたアカギが、カイジの方に向かって歩いてきていた。


 勝負のあと、女性の分の錠剤も手に入れたカイジは、眠っている彼女を起こさぬよう、そっと薬を飲ませた。
 起こすと、また逃げられるかもしれないからだ。

 そして、アカギの手を借りてビルから連れ出し、あとのことは警察に任せることにした。
 男の罪の全容については、アカギから警察に仔細を話すことにしたが、信用して貰えるかどうかは甚だ怪しい。
 でも、女性が目を覚まして正気を取り戻せば、何らかの証言をしてくれるはずだ。
 当事者の証言なら、警察も信用する可能性が高い。



 ちなみに、全裸のまま外に出すわけにもいかないので、女性にはやむを得ずカイジのベンチコートを着せた。
 裸体を覆うのに充分な長さがあるし、耳やしっぽも隠せる。
 カイジも錠剤を飲んだが、効き目が表れるのは一時間後なので、感覚のすっかりなくなってしまった耳も、ふさふさとしたしっぽもまだ残っている。
 時間が時間だし、周囲に人気は少ない。
 万が一、誰かに見られたらーー、まぁ、そういう趣味だと思われても仕方がないか、と諦めるつもりである。




 アカギはカイジの前に立つと、警察でのことを報告した。
「あの人はちゃんと警察に引き渡したぜ。最近、この界隈での行方不明者が増えてるってヤーさんも言ってたから、すぐに身元もわかるだろう」
 静かで抑揚のないアカギの言葉に、カイジは眉を寄せ、やたら大きくて嗄れた声で聞き返す。
「ぁんだって?」
 耳を自ら潰したカイジには、もちろんアカギの声も聞こえない。
 アカギは諦めてカイジの隣に腰掛け、ぼそりと言った。
「ジジイ相手してるみてえだな」
「あ゙?」
「なんでもねえよ」

 じろじろと自分を見る胡乱げな視線を無視して、アカギは欠伸をひとつする。
 平和そうなその横顔を見たとたん、カイジの胸に熱いものがじんわりと広がっていった。

 自分が勝ったから、アカギがここに今、こうして生きている。
 その事実に、自分でもおかしいと思うほどほっとするのだ。
 誇らしくて、感動して、なぜか泣けてくる。

 こんなことで泣くなんてバカみたいだ、とはもちろん思う。
 どうやら、犬の部分がまた、暴走しているらしい。
 最後まで難儀な体だなぁ、と思いつつ、カイジは体の力を抜いた。
 いつも犬に近づくまいと神経を尖らせていたが、それももう終わりだし、もう犬の本能に逆らう必要もないかと思ったのだ。

 体と心が緩むと、途端に涙で視界がぼやける。
 アカギがそばにいる。生きて、呼吸して、喋っている。
 ただそれだけのことが、こんなにも嬉しい。
 涙が溢れる。

 ぐす、と鼻をすする音に、アカギがカイジを見た。
 そして、驚きに目を見張ったあと、ゆるゆるとため息をつく。
「なんだよっ……! 勝手に出てくるもんは、仕方ねえだろうがっ……!」
 ごしごしと目を擦るカイジをしばらく黙って見つめたあと、アカギは吐息に乗せるように、そっと、ちいさく呟いた。
「まぁ……どうせ最後だし、いいか……」
「は? だから聞こえねえって……」
 訊きかけたカイジの目が、大きく見開かれる。
 アカギが体を自分の方へ向け、腕を広げていたからだ。
「ほら……おいで?」
 その、アカギにおよそ似つかわしくない台詞は、カイジには聞こえない。
 聞こえないが、仕草でだいたいその意図を察したカイジは、みるみるうちに顔中を真っ赤にして、視線を逸らす。
「っ……あのなぁ、ヤローにそんなことされても、キモイだけだっつうの……」
 しかし言葉とは裏腹に、カイジの視線はちらちらとアカギの方を窺っている。
 まるで、『待て』を命令されている犬のように。
 カイジの中では、犬の本能と人間としての理性が、今まさにせめぎ合っているのだ。
 アカギはそんなカイジの葛藤などすべてお見通しだというように、ニヤニヤと意地悪く笑っている。
 そんなアカギにむっとしながら、カイジは迷った。

 正直、男相手にイカレているとは思う。
 でも、どうせこれが最後なんだ。
 さっきの勝負では、研ぎ澄まされた犬の五感に悩まされたりもしたけれど、自分の最大限の力を振り絞ることができたのは、犬の自分のお陰でもあるのだ。
 本当にここまでよくがんばってくれた犬に、最後くらいご褒美をやってもいいのではないか?


 悩んだ末、カイジは犬の好きにさせることに決めた。
 目を閉じ、ふっ、と体の力を抜いた瞬間、カイジの体が自身でも制御できないほど、ものすごい力で勝手に動きだす。


 いきなりカイジに飛びつかれ、油断していたアカギはバランスを崩し、カイジの体もろともベンチの上へ仰向けに倒れ込んだ。
「あんたなぁ……ちょっとは自分のタッパ考えろよ」
 たしなめるも、激しくしっぽをふりたくりながら自分の胸板にしがみつき、ぐりぐりと額や頬を擦りつけたり、胸に鼻先を埋めて大きく深呼吸したりしているカイジに、呆れ顔でため息をつくと、それからなにも言わなくなった。
 代わりに、黒い頭に手を乗せ、髪をくしゃくしゃとかきまぜてやる。
 労うような手つきにカイジは目を見開いたあと、喜びを噛みしめるようにぎゅうっと目を瞑り、ぶるぶる震えた。

 嬉しい。
 うれしい。
(うれしいっ……!)

 あたたかい腕。
 どくん、どくんと脈打つアカギの鼓動を肌で感じて、どうしようもなく、また涙が溢れてくる。
 隠す覆いのなくなった黒いしっぽが、ばっさばっさと千切れんばかりに激しく振りたくられている。






 しばらく、ふたりはそうやってベンチの上で体をくっつけていた。
 やがて、空がすこしずつ明るくなってきた頃。
 ぬるい夜風がふたりの側を吹き過ぎていき、カイジの頭を撫でていたアカギが、ある異変に気づいた。
 傷つき、今にも千切れ落ちそうになっていたカイジの犬耳が、なくなっている。
「カイジさん、あんた、耳……」
 アカギの言葉に、カイジもはっとした。
 手を伸ばして頭をぺたぺたとさわると、そこに確かにあったはずの犬耳が跡形もなく消えている。
 怪我をした痕跡すらいっさい残っておらず、そこにあるのは血の湿り気だけだ。

 恐る恐る、顔の側面に手をやる。
 そこには懐かしい、人間の耳が戻ってきていた。
 対利根川後の継ぎ跡は残っているものの、そのほかの傷は全くなく、元通りの自分の耳だ。
 尻を触ると、つい今しがたまでぶんぶんと振っていたはずのしっぽもなくなっている。
「……っていうか、音っ……!」
 叫んでから、カイジは自分で自分の声に驚く。
 いつの間にか、聴覚まで回復していた。
 どういう仕組みかはよくわからないが、どうやら、カイジの中の犬が去るときに、ついた傷もそっくり引き受けていったようだ。
 カイジは安堵のあまり、アカギの胸にずるずると沈み込んだ。

 聴覚が戻るかどうかは、正直五分だと思っていた。
 もとの姿に戻ったとき、犬の耳に起こったことが自分の耳に引き継がれる可能性だって考えられたのだ。
 メスを振り下ろした瞬間から、当然覚悟は決めていたものの、いざ元通りになると、やっぱりものすごくほっとする。



 カイジはすこしの間、気が抜けたようにアカギの腕の中で脱力していた。
 それから一分ほど経って、急に我に返り、がばりと起き上がると、速やかにアカギから離れようとした。
 しかし、それは叶わなかった。
 アカギがカイジの体を力いっぱい抱きしめて、離そうとしないからだ。
「わぁっ! はっ、離せっ、アホっ……!」
 カイジは真っ赤な顔のまま、じたばたと暴れる。
 犬じゃなくなったカイジにとって、男と、しかも公の場で抱き合っているなんてのは狂気の沙汰だ。
 顔がカッと熱くなり、だらだらと嫌な汗が背中を流れる。
 逃れようと必死にもがいていると、アカギの体が笑いに震えはじめた。
「クク……もう、いいのか?」
「いいっ……! もういいから、とっとと離してくれっ……!」
 困り果てたような声でカイジが懇願すると、アカギの腕の力がぱっと緩んだ。
 猛スピードでアカギから離れ、素早く辺りを確認するカイジに、体を起こしながらアカギは言う。
「心配しなくても、誰も見てねえよ」
 疑わしげなカイジの視線を受け流し、固いベンチに長いこと押しつけられていたせいで凝った背筋を軽く伸ばすと、アカギは立ち上がる。
「そろそろ、行こうぜ」
「あ? ああ……」
 曖昧に返事をして、カイジはアカギの顔をじっと見る。
「……なに?」
「いや、その……」
 カイジは口ごもり、せわしなく視線をさまよわせていたが、覚悟を決めたようにふたたびアカギを見ると、ぼそりと言った。

「あ、ありがとな……いろいろと」

 カイジは本当に嬉しかったのだ。
 アカギがもとに戻るために、長い間ずっと協力し続けてくれたこと。
 最後まで自分を信じ、自分に賭けてくれたこと。

『あんたは必ず勝つ。そうだろう、カイジさん』

 アカギがそう言ってくれたから、カイジは頑張れた。
 これは犬の気持ちではなく、掛け値なしの、カイジ自身の気持ちだ。
 だから、照れ臭いのをぐっと堪えて、まっすぐ、感謝を伝えようと思ったのだ。


 短くて不明瞭で聞き取りにくいカイジの言葉だったが、アカギの耳にはしっかり届いていた。
 一度、瞬きしたあと、アカギはニヤリと笑う。

「いろいろって、なに? もっと具体的に教えてよ」
「お、おちょくってんじゃねえ! ひとがせっかく……」
 茶々を入れるアカギに、カイジはただでさえ赤い顔をさらに赤くして、気分を害したようにむっつり黙りこくってしまった。
 その様子にますます笑いを募らせ、アカギはカイジに言ってやる。
「嘘だよ。ごめん。……どういたしまして」
 笑い含みの謝罪に、カイジは怒った顔のまま、ちらりとアカギを見る。
 相変わらずアカギは失礼な笑みを隠そうとしていないが、珍しく楽しげなその顔を見ていると、むくれているのがバカバカしくなって、カイジも頬を緩め、笑った。

「あー、安心したらなんか、腹減ったなぁ」
「なんか食いに行きますか」
「酒が飲めるとこがいい……お前の奢りだよな? オレ、金ねえぞ」
「はいはい」

 いつもと変わらないやりとりをしながら、カイジもベンチから立ち上がる。
 ぐっと伸びをして、東の空を見上げると、新しい朝がもう、すぐそこまで迫ってきていた。







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