未来 壮年同士


 まだ出会ったばかりの頃、一夜の宿を借りるために上がった、狭い部屋の壁に飾られていた色紙。
 セロハンテープと壁紙の相性が悪いのか、頻繁に傾くたびに家主が几帳面に貼り直していた。そこに書かれている文言が、好きな歌の歌詞なのだと教えられたのは、訪問の頻度が月に一度になった頃。
 その後もっと深い仲になり、一緒の布団に包まっているときにしつこくねだってみれば、大層嫌そうな顔でぶつぶつ文句を垂れながらも、そのフレーズを歌ってくれた。
 睦言を交わすくらいのボリュームの、やや早口でぶっきらぼうな声。今でもふとした瞬間に思い出すことのあるそのメロディを、口笛でなぞる。

 この男と共にいたのはもうずいぶん昔のことだ。
 忘れなかったとはいえ記憶はすっかり風化していて、リズムも音程も怪しかったが、男は目を見開いて俺の顔を見つめていた。
 あの頃とまったく変わらない、くっきりと大きなその瞳を見ていると、記憶の中のメロディと共に徐々にあの頃へ戻っていくような気がして、口笛が夜気に溶けたあと、俺はぽつりと呟いた。

「あんたのその手が、好きだったんだよ」

 血と涙にまみれ、傷だらけのその手は、掴んだ未来を決して離さず、誰にも譲らない。
 揺るぎないその強さに似つかわしい歌だと、ずっと思っていた。
 だからあの頃、情事のあと戯れに歌わせたりしたのだ。
 不機嫌なのに意外なほどやわらかい声色に、目を閉じて耳を傾ける時間が好きだった。

 ずいぶん前に男と離れ、こんな思いを伝えることなんてないと思っていたが、お互いくたばる前にこうして再会しちまうんだから、わかんねえもんだと思う。

「貸した金でも、返しに来たの」
 男が俺のことを探し回っていたことは噂で聞き知っていた。ギャンブルで掴んだ莫大な金の何割かを、俺の足取りを追うために費やしたということも。
 それを知ったとき、えらく久しぶりに高揚した。
 こんなに離れていたのに、男はいとも簡単に俺の心を動かすのだ。しかしそんなことを認めるのは癪だから、口だけは昔のような憎まれ口を叩き、煙草に火をつける。
 ゆっくりと吐き出した煙の向こう、男は俺の顔を挑むようにまっすぐに見て、口を開いた。

「未来を掴みに来たんだよ」

 鮮烈な双眸に射抜かれ、わずかに動きが止まる。
 その隙を狙い澄ましたかのように、男は俺に腕を伸ばす。
「こんなジジイになるまで探させやがって。どこほっつき歩いてやがったんだよ」
 怒ったように抱き竦められる。体が痛むほど、強く。二度と離すまいとするように。
 不意を突かれたかのように、指に挟んだ煙草が音もなく落ち、俺は苦笑する。
「その未来は、あんたの手の中なんかに、おさまりきらないかも知れないぜ」
 おどけてみせると、男は
「上等」
 と喉を鳴らして不敵に笑う。

「この両手から溢れ出るくらいの、手に負えないほど破茶滅茶な未来を、オレに見せてみろよ」

 凄い台詞だ。睦言の中で気に入りの歌を口ずさむくらいのことをあれだけ渋っていた男が、いったいどんな風に歳を重ねて、こんなことを言えるようになったんだろうか。
 昔みたいに顔が赤くなっているのかどうか気になったけど、身じろぎすら許さないほどの男の力がやたら心地よく、ふっと体の力を抜いて身を委ねてみる。

 これからの日々、男と生きていく未来。
 それを想像するだけで、やはり心は他愛もなくふわりと舞い上がって、俺は静かに笑いながら、たった今俺の未来になった男を抱きしめ返したのだった。





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