終末、そののち 薄暗い ただの日常話 カイジさん視点



 あっけなく、七月が過ぎた。

 あれだけ世間を騒がせておきながら、結局、恐怖の大王なんてものは降ってこなかった。
 世界は終わらず、火星人の支配下に置かれることもなく、何事もなかったかのようにすんなりと月は替わり、夏本番を迎えた。

 結局、眉唾だったってことだ。紫煙を燻らせながら、窓枠に寄りかかる。
 開け放った窓の向こうには巨大な入道雲。ゆるやかな風が運んでくる熱気に、じわりと汗が滲む。

 点けっぱなしのテレビが垂れ流すワイドショーは、ついこの間まで世界が終わると騒いでいたことなどすっかり忘れてしまったかのように、芸能ゴシップに熱をあげている。
 どのチャンネルも本も雑誌も、みんなそうだった。手のひら返しもここまで見事だとむしろ清々しい。

 オレも相変わらずの生活を続けている。心のどこかで、大予言なんて胡散臭いと思っていたから、『7の月』もずっとこの調子だった。
 恐らく、この世界に生きる人々の大半も、オレと同じようにいつもどおりの日々を消化していたのだろう。

 いつもどおりに過ごす終末。
 そういえばちょうど半月ほど前、そんな会話を交わしたことを、ぼんやり思い出す。
『世界が終わる』と騒がれていたこの半月を、あの人はどんなふうに過ごしていたのだろう。
 荒唐無稽な予言なんて信じるようなタチじゃないだろうから、きっと自身でも言っていたとおり、普段と変わらず風のように捉えどころのない日々を過ごしていたんだろう。

 伏し目がちになった薄い瞼から伸びる、疎らな睫毛を思い出す。
 あの日感じた、なんとも形容しがたい不吉さが蘇ってきて、それを追い払うように煙を一層深く吸い込み、オレは大きくむせ返った。
 窓の下に、ちょうど今、思いを巡らせていた人の姿があったからだ。
 
「赤木さんっ……!?」
 叫ぶように名前を呼ぶと、その人はオレを見上げ、ひょいと右手をあげてみせた。
 そのまま、赤木さんがアパートの入り口へと向かったので、オレは慌てて短くなったタバコを灰皿に押しつけ、バタバタと玄関へ走り出た。

「よぉ」
 勢いよくドアを開けると、そこに立っていた赤木さんがニッと笑った。
 まだ長い咥えタバコの先から紫煙が揺らめいている。さっきまで下に居たっていうのに、相変わらず人並外れて歩くのが速い。
「どうしたんすか、珍しい。すんません、ちょっと散らかってるけど……、」
 思いがけない来訪に動揺しつつも室内へ促すと、赤木さんは首を横に振った。
「いや……、ここでいい。借りてたもん、返しに来ただけだからな」
 借りてたもん? 赤木さんから金を借りたことは星の数ほどあれど、オレが貸したものなどあっただろうか。
 首を捻っていると、赤木さんはスーツのポケットから封の切ってあるマルボロのパッケージを取り出した。
「前、タバコ切らしてたとき、拝借したんだよ」
 ここ来るまでに一本だけ貰っちまったけど、と言いながら、赤木さんは咥えタバコの先を揺らしてみせる。

 そう言われても、そんなことがあったかどうかすら、オレはもう覚えていなかった。
 タバコの一箱くらい、わざわざ返しに来なくたってよかったのに。
 そう言ったけど、赤木さんは笑って、オレの手に赤と白のパッケージを押し付けた。

「いいから、取っとけよ。これで最後なんだから」
「……え、」

 最後? 最後、って……
 言葉の意味を掴みかねて戸惑っていると、赤木さんはニヤリと笑い、唇から咥えタバコを抜き取ると、オレの鼻先に煙をふうと吹きかけた。
 ゲホゲホとむせるオレを愉しそうに眺め、赤木さんは
「ありがとよ。俺はどうやら、いつもどおりの俺のまま、終わりを迎えられそうだ」
 ひとりごとのように、そう呟いた。

 終わり? ーー終わりって、7月はもう過ぎましたよ。恐怖の大王なんか降って来なかったし、世界も終わってないじゃないですか。

 そんな軽口でも叩きたいのに、煙が邪魔して声を出せない。
 赤木さんはふっと微笑し、むせ過ぎて涙目になっているオレの唇の隙間に、吸っていたタバコを差し込んだ。
「じゃあな」
 やわらかい声でそう言って、赤木さんはオレに背を向ける。
「っ、ちょ、待っ……」
 慌てて追いかけようとしたが、足の速い赤木さんの背はどんどん遠ざかり、あっという間に見えなくなってしまった。
 後に残されたのは、マルボロのまだ新しいパッケージと、降るような蝉の声だけ。
 息を乱しながら、オレは赤木さんの言葉を思い出す。

『最後』だとか『終わり』だとか。半月前のテレビでしょっちゅう聞いたような言葉を、なぜ今、赤木さんが口にするのだろう。
 予言なんて嘘っぱちだったのに。世界は終わらなかったのに。

 蘇るのは、中華料理屋で垣間見た赤木さんの、眠るように穏やかな表情。
 背筋がヒヤリと冷たくなり、赤木さんから渡されたマルボロのパッケージを、無意識に強く握りしめる。

 そこでふと、違和感を感じ、ひしゃげたパッケージの蓋を開いてみる。
 ぎっしりと詰まったタバコの中で、なにかが鈍く光っている。
 取り出してみると、それは鍵だった。
 ずっと前に赤木さんに渡してあった、オレの部屋の合鍵。

 唇の隙間に差し込まれていたタバコがぽろりと落ち、こめかみから顎の先へ滴った汗とともに、乾いた地面へ吸い込まれていった。







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