薔薇の花
たった数時間の労働で草臥れた体を引き摺るようにして歩く。タバコの煙が夜の空気に溶けていく、その匂いの中にふと、異質な香りが混ざる。
清楚で華やかな香り。その出所は、片手に提げた薔薇の花束。
もちろん、自分で買ったわけじゃない。今日、バイトを辞めることになってーーほとんど解雇に近い形だったけど、帰り際に渡されたのがこの、色とりどりの薔薇の花束だった。
お疲れさまでした、と呟いて押しつけるようにしてこれを渡してきた女子大生は、最後までオレの顔を見もしなかった。きっと店長に面倒な役割を押し付けられてウンザリしていたんだろう。
オレだってウンザリだった。オレに薔薇の花束なんて不釣り合いにも程がある。店長のセンスを疑ったが、これが最後の嫌がらせなのだとしたら腹が立つほど効果的だった。
歩くのに合わせて、花束がガサガサ鳴る。また、バイト探さなきゃな。博奕のタネ銭もねぇし。面倒くせぇ。
最後まで、店長には目の敵にされてたな。真面目にとまではいかなくても、普通に働いてたつもりだったんだけどな。まぁ、嫌われるのには慣れてるし、どうだっていいけど。
どうしてオレはこんなとこで燻ってるんだろ。こんなしょぼいバイトなんかじゃなくて、もっとなにかあるはずなんだ、オレにしか成し遂げられないデカいことが。まだ見つけられてないだけで、なにか、なにかーー
涙がじわりと膨らむ。それがまた、情けなくて悔しい気持ちに拍車をかける。自分の涙腺の緩さに反吐が出る。ちくしょう。吐き捨てて、石ころを思いきり蹴り飛ばす。
コロコロと転がっていった石ころは、白いスニーカーの爪先に行き着いた。
その足が石ころを蹴り返してきて、オレの薄汚れたスニーカーにコツンと当たるのを、俯いて睨むように見る。
どうして。
どうしてこう、狙いすましたようなタイミングで現れるのか。
項垂れたままのオレに近づいてくる気配。ぐにゃりと歪む視界に入る、白いスニーカーの爪先。
もうウンザリだ。この悪魔。何ヶ月も顔を見せなかったくせに、こんな夜に限って現れやがって。
ウンザリだ。情けない、腹立たしい。こんなオレを見ないでくれ。
花の香りに、ハイライトの苦みが混ざる。どうにかして顔を隠したくて、でもどうしようもなくて、咄嗟にオレは花束に思いきり顔を埋めた。
石鹸のような香りと瑞々しい緑の匂い。たくさんの棘が、容赦なく頬を引っ掻いてくる。鮮やかな色彩が、潤んだ目に沁みる。
馬鹿なガキみてぇな行動だなんてことはわかっている。でもどうしても、この泣き顔を見られたくなかった。
するといきなり、薔薇の花束ごと抱き寄せられた。
色とりどりの花びらの中、花びらよりも薄くやわらかいものが掠めるように唇に触れ、オレは驚いて顔を上げてしまう。
すると、ガサリと音をたて、花に埋もれていた白い顔がゆっくりとオレの方を見た。
してやったり、とでも言いたげに口端の上がったその顔は、薔薇の棘に引っ掻かれてあちこち傷だらけで、ガキかよっ、と自分のことを棚の上に放り投げて言いながら、オレはつい笑ってしまったのだった。
終
[*前へ][次へ#]
[戻る]