一緒に・7


 
 闇を祓う力を持つ刀で、少年は黒い龍ーー閻魔に斬りかかった。
 力強く跳躍し、その喉元を狙って刀を突き立てる。
 その度に、激しい剣戟のような金属音が、高く響き渡った。

 ふわりと地面に降り立ち、少年は刀を構え直す。
 神器である少年の刀を以てしても、肉を断つどころか、鋼のように固い鱗に傷をつけることすらできない。

 もはや少年の猛攻を避けようとすらしないまま、閻魔は物憂げに少年を見下ろした。
『無駄じゃ……貴様如きの力では、わしは倒せぬ……』
 ちいさな街の稲荷神と、冥界の王。
 その力の差は歴然。閻魔にとって、少年は生まれたての赤子も同然なのだ。

 しかも、少年は成長した姿になることを禁じられ、全力を発揮することすらできない。
 せめて、自由に空を駆けることができれば、狙いを定めやすくなるのだが、少年の姿で使える力には制限があり過ぎて、それすらできなかった。

 すでに途方もない回数、龍に切りつけてきた少年の息は上がり、戯れに繰り出される龍からの攻撃によって、全身にいくつもの傷ができていた。
 白い衣の其処此処に、じわりと滲む赤い血。
 それでも少年は、鋭い目で閻魔を見据え、一直線に飛び掛かる。
 

 ……初めて出会った日。ひどく困惑しながらも、ともに暮らすことを受け入れてくれた。
 いつも金がないとぼやいているくせに、バイト先で好物のチキンを買ってきてくれた。
『ガキはいっぱい食わねえと』とかなんとか言って、可能な限り、慣れない手料理を振る舞ってくれた。

 頭を撫でる、無骨な手。
 無愛想な見た目を裏切る、意外なほどやわらかい声。
 不器用そうに、はにかむような笑顔。

 ーー必ず助けると決めた。
 だから、ぜったいに退くわけにはいかない。

 ギョロリとした目を細め、漆黒の龍はグルルと喉を鳴らす。
『命知らずの蛮勇だけは、認めてやろう……せめて、苦しまずに済むよう、息の根を止めてやる……』
 巨大な口の隙間から、どす黒い炎が漏れ出す。
 轟々と炎の燃え盛る音が大きくなり、龍がまさに火を吹こうと大きな口を開けた、その瞬間。


 パンッ、となにかがひび割れる音が、空間にこだました。
 いったい、どこから現れたのか。
 少年と龍との間に、粉々に砕けた大きな鏡の破片が、バラバラと落ちてくる。

 少年の切れ長の目が、大きく見開かれる。
 少年の背丈ほどもある大きな鏡の破片の中に紛れるようにして、人間がひとり、落ちてきたからだ。
「ーーカイジさんっ……!」
 見間違えるはずもない、想い人の名前を叫び、少年は咄嗟に刀を投げ出して駆ける。
 地面に落ちる直前で、少年は滑り込むようにしてカイジの体を抱き止めた。

 カイジは気を失っているようだった。一緒に落ちてきた鋭い破片に肌を裂かれたのか、全身傷だらけではあるものの、その傷は浅く、命に別条はない。
 穏やかな呼吸を確かめて、少年は深く息をつく。
 そして、カイジを傷付けられたことに憤激し、白い毛をゆらりと逆立たせ、視線で射殺すような目で閻魔を睨めつけた。

 神でありながら、まるで修羅のようなその瞳。
 黒い龍は喉を鳴らし、ふたりを焼き殺そうと口を開く。

 その瞬間。
 少年とカイジの頭上に、眩い光明が射した。

 ーー裁定が下った

 聞くものの心に畏れを抱かせる、荘厳な鐘の音のような声。
 それはカイジが幾度も夢の中で聞いてきた、あの声だった。

 その瞬間、龍はおどろおどろしい唸り声をあげながら、火を吹きかけた口を閉じた。
 目を眇めたその表情は、まるで興醒めしたかのようで、少年がその変化に見入っているうちに、ふたたび声が語りかけてきた。

 ーー本来、人の子と番になることを、天帝は御許しにならない
 しかし、この人の子も、お前も、等しく強い想いを抱いていることは理解した
 人間の信仰あればこそ、我らは存在し得る
 罪なき人の子を不幸にすることは、我らの本意ではない

 淡々と語られる『裁定』の言葉を、少年はカイジの体を確と抱いたまま聞く。

 ーーよって、そこな稲荷神よ
 この人の子と、正式な番になることを認める
 お前が、この人の子の願いを叶え、未来永劫、共に生きるのだーー


 そう言い終わるのと同時に天から射す光は消え、元の地獄の闇が戻ってきた。
 呆然とする少年を見下し、龍はフンと息を吐く。
『なんじゃ……つまらんわい』
 吐き捨てるのと同時に、龍の姿が黒い霧に溶け、元の閻魔の姿に戻る。
「よもや自我を取り戻し、虫籠を破るとは。……そこな人の子も、貴様とよく似た馬鹿だったとはな」
 嘲るように言って、閻魔はぐるりと天を仰いだ。
「ーーよいか。このような戯言に、二度とわしを巻き込むな。……次は、ただではおかぬからな……」
 天界に向かっておどろおどろしい声で牽制する閻魔を見て、少年はすべてを理解した。

 少年とカイジは、天帝に試されていたのだ。
 互いの覚悟と、その気持ちの強さを。

 この先、どんな困難を乗り越えてでも、ともに生きたいと願えるか。
 一連の出来事は、それを測るために天界の用意した、言わば試金石だったのだ。

 人間と神ーー住む世界もその性質もまったく違う者同士が番うことは、何かと難しいことも多いため、簡単には認められないことなのだと、少年も聞き知っていた。
 この程度の障害で挫折していては、ふたりがともに生きる資格はないと判断され、少年は天界に強制帰還させられていたのだろう。

 天界からの声が、慈悲の対象であるはずのカイジを『枷』だの『排除した』だのと言ったことへの強い違和感が、正しかったことを少年は悟った。
 あの言葉は少年を試すための偽りで、天界の本意ではなかったのだ。

 しかし、こんなーー言ってしまえば天界の仕組んだ茶番に、冥界の王までをも巻き込むとは。
 すべてに惓んだような表情に戻った閻魔を、少年はじっと見つめる。

 本来であれば、少年のようにまだ未熟な神の、言わば私情に、協力するような地位のものでは無いはず。
『こんな戯言に二度と巻き込むな』と、天に向けて牽制していた様子を見ても、閻魔が好き好んで一連の出来事に協力していたとは、俄かに信じがたい。

 少年の疑問を感じ取ったかのように、黄金の双眸が少年を斜に捉える。
「小僧。勝負は持ち越してやる……貴様とはいずれ、また会うことになるからな……」
 遥か遠くを見るような顔で、冥界の王は続けた。
「脆弱な貴様には、見えぬじゃろうがな。果てしなく遠い、別の時空での話じゃ……」
 千里の距離はおろか、遥か未来や過去までをも見通せると言われる、金色の瞳。
 その目には、いったいなにが映っているのだろうか。
 今の少年には、想像もつかないことであった。

 燃え盛る椅子に深く腰掛け、閻魔は尊大に言い放つ。


「このような茶番ではなく、貴様とはその世界でこそ決着を着けようぞ。ーー戻るがよい、矮小な者どもよ……」


 その声を合図に、世界の輪郭がぼやける。
 まるで水底から水面を仰いだように、ゆらゆらと揺れる景色。

 瞬きの間に、ふたりは少年の神社にある、池のほとりに戻ってきていた。
 地獄は空間の歪みの中に存在する。長い長い時間を閻魔との戦闘に費やした少年だが、頭上に輝く月の位置は、池に飛び込む前とさほど変わっていなかった。

「カイジさん」
 カイジの肩をしっかりと抱いたまま、少年は呼びかける。
 すると、ややあって閉じた瞼がゆっくりと開き、黒い眼がぼんやりと少年の方を見た。
「……お前……」
 驚いたように目を見開き、カイジはその身を起こそうとする。
 だが、体のそこかしこにできた傷の痛みに呻き、涙目で少年の腕に凭れる格好となってしまった。

「大丈夫……? カイジさん」
 耳を下げて顔を覗き込んでくる少年を安心させるように、カイジは笑いかけてやる。
「こっちの台詞……、お前、傷だらけじゃねぇか……」
 白い衣のあちこちに滲む赤いシミを、カイジは労わるような目で見つめる。
「お前が、助けてくれたんだろ。声、聞こえたよ。ありがとな……」
 掠れた声で礼を言うカイジに、少年は痛みを堪えるような顔で唇を噛んだ。
「オレは……あんたを守れなかった。……こんなことに巻き込んじまって、怪我までさせちまった」
 己を責めるような少年の口調に、カイジは静かにかぶりを振る。
「なにがなんだか、未だにさっぱりわかっちゃいねぇけど……、でも、あの妙な出来事が、お前のせいで起こったことじゃねぇってことだけは、わかるよ」
 きっぱりとそう言い切ってみせるカイジ。

 幾度も繰り返し夢で見てきた、あの風景。
 それが現実のものとして立ち現れ、つい先刻までその中に囚われていたことを思い出しただけで、カイジの体に震えが走る。

 果てなき闇の世界に閉じ込められ、魂を奪われ……なによりも大切な、少年への想いさえ忘れさせられて。
 それでも、少年が名前を呼び続けてくれたから、こうして戻ってこられた。
 あの出来事はまるで、自分の気持ちを偽るなという、誰かからの戒めのようだった。
 少年ともう一度会うことができた今、恐ろしかったあの経験も、カイジはそんな風に捉えることができるようになっていた。

「だから、そう自分を責めんな。嬉しかったよ……お前が、何度も何度もオレの名前を呼んでくれて」
 和らいだカイジの瞳をじっと見つめながら、止められない気持ちに押されるようにして、少年は口を開いた。

「ーー好きだ、カイジさん」

 ふたりの間の空気が、固まった。
 カイジの双眸が、これ以上ないくらいに大きく見開かれていく。

 口を半開きにした間抜け面で呆然とする想い人に、少年はゆっくりと語り始めた。
「ずっと、好きだった。いつ好きになったのかは、もう覚えていないけどーー、でもおそらく、初めて会ったときからずっと好きで、あとは、どんどんーー」
「ちょ、ちょっ、ちょっと待てっ……!」
 水が流れるように淀みなく話し続けようとする少年を、真っ赤になったカイジが慌てて止める。
「おっ、お前、好きな人がいるってっ……!! ず、ずっと、その人と一緒にいたいって……っ!!」
 ひどく混乱しているのか、カイジの声はひっくり返っている。
 ピクリと白い耳を動かし、少年は首を傾げる。
「だから、オレが好きなのはあんただ。ずっと一緒に生きていきたい相手ってのは、あんたのことだよ。カイジさん」
 涼やかな声で囁かれ、予想外の展開にカイジは言葉を失ってしまう。

 思い出されるのは、少年が物思いに耽っていた、数年前のとある日の出来事。
 九本の尾を持つ未来の少年に呼び寄せられて、カイジは少年に好きな人がいることを知った。
 未来の少年がその片恋を実らせ、人間の嫁と幸せに暮らしていることもーー

 変な汗をかきながら、カイジはクラクラと目眩を覚える。
 ひょっとして……あんなに前から、こいつはずっと、オレのことをーー?
 それに、『人間の嫁』って、まさかーー

 まるで池の鯉みたいに、ただパクパクと口を開閉するカイジを、少年は覗き込むように見る。
「……カイジさん?」
 カイジはハッと我に返る。
 至近距離にある端正な顔に、今さらながら取り乱すカイジ。
 だが、表情の乏しい整った顔に、まるでちいさな子供みたいな寄る辺ない表情が見え隠れしているのを見て、カイジは落ち着きを取り戻した。

 耳まで真っ赤な顔のまま、大きく息を吸って吐いて、カイジは少年の顔をまっすぐに見る。

「お、オレもーー、お前が好きだっ……! ずっと一緒に生きていきたいって、思ってるっ……」

 ところどころつっかえながらも、真摯な声でカイジは言い切った。
 少年の白い耳がピンと立ち、切れ長の目の縁が広がる。
 信じられないものを見るかのようにカイジの顔をまじまじと見て、少年はぽつりと呟いた。
「ーー本当に?」
「……この状況で、嘘つく理由なんてねぇよ……」
「あの、年増のアナウンサーは?」
「あっ……あの人は、ただの憧れっていうか……!」
 しどろもどろになりながら答えるカイジに、少年は重ねて問いかける。
「……オレと番になるってことは、不老不死の運命を受け入れるってことだ。人間の寿命よりも遥かに長い時間を、オレと生きていくってことだ。……あんたは、それをわかってる?」
 淡々としているが、わずかにちいさくなった声。
 ふさりとしっぽを揺らす少年の懸念を吹き飛ばしてやるため、カイジはニッと笑った。
「お前といると、とにかく退屈しねぇからな。人間の一生なんかじゃ、短すぎるってずっと思ってたんだ」
 カイジはこれからのことに思いを巡らせる。

 やりたいこと。見せたいもの。たくさんありすぎて目眩がするほどだ。

 春は花見、秋は月見。一面の雪景色の中も、一緒に歩いてみたい。銀世界の中で、こいつの絹糸の髪は、きっと綺麗に映えるだろう。
 ギャンブルもいいけど、遊園地や水族館、普通の人間の遊び場を、たくさん教えてやりたい。
 もちろん、打ち上げ花火は毎年、隣で見たいしーー
 
 ワクワクと胸を躍らせるカイジの目から、涙がぽろりと零れ落ちた。
 それがきっかけとなったかのように、カイジの顔がくしゃりと歪み、次から次へと涙が溢れ出す。

 あまりにも短い期間に、いろいろなことがありすぎた。
 少年のもとに戻ってこられた安堵と、想いの通じ合った喜び。
 それらがカイジの容量を超え、涙という形で溢れ出す。

 肩を震わせ、咽ぶように嗚咽するカイジの涙を指先でやさしく拭って、少年はカイジに囁いた。
「ーーもう、あんたはオレのものだ。あとで後悔したって、もうぜったい、離してなんかやらないから」
 肩を抱く手に力が籠るのを感じて、カイジは泣きながら笑った。
 手を伸ばして少年の後ろ頭を押さえ、その額に自分の額を押しつける。
「……オレの台詞だ、ばぁか」
 至近距離で見つめ合う鋭い目が、やわらかな笑みに細められるのを見て、カイジは胸に火が灯ったように、あたたかい気持ちになった。

 この先、どんな困難が待ち受けようとも、傍にこの笑顔があれば、きっと乗り越えていける。
 まったく同じことを考えているふたりの頭上、鬱蒼とした木々の隙間を縫うようにして、金色の光が射してくる。

 稲荷神の守護するちいさな街に、眩しい初夏の夜明けが訪れようとしていた。






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