夢をみてたよ ただの日常話



 昨晩どんなに夜更かししていても、たいてい次の日の夜明け頃には目覚めているのが赤木しげるという男の性質だが、そんなアカギにだって目覚めの良い朝とそうでない朝の区別はあった。

 どうやら今朝は前者のようだ。白っぽい汚れの浮いた鏡に映る自分の姿を見ながら、アカギは少量の歯磨き粉を付けた青い歯ブラシを口に突っ込む。
 今朝の寝覚めは悪くなかった。徹マン明けのうえ昨夜はずいぶん深酒をした気がするけど、不思議と頭はすっきりしていて、体も軽い。
 寝癖であちこち跳ねた髪には構うことなく、洗顔だけ済ませて部屋に戻ると、物音で目を覚ましたのか、家主がむくりとベッドの上に起き上がっていた。

 アカギと違って宵っ張りの朝寝坊であるその男は、普段の半分も開ききらない目でぼんやり宙を眺めて固まっている。
 長い髪はアカギに輪をかけてぼさぼさで、櫛をとおせば歯が欠けてしまいそうな有様である。
「おはよう、カイジさん」
 アカギが声をかけると、カイジはのっそりと顔を向ける。

 くしゃりと顰められたその顔は、ぎこちなく微笑んでいるようにも、不機嫌に睨みつけているようにも見えた。
 その感情を掴みかねて細い眉をわずかに寄せたアカギだったが、すぐに
 ーーああ、単に眩しいだけか
 と気づき、吐息だけで笑う。
 
 なに笑ってやがる、と起き抜けのふわふわした声で文句を言う恋人に近づき、ベッドに腰掛けてアカギはキスをした。
 ほんの挨拶がわりのような、触れるだけの口付けなのに、アカギの唇が微かに濡れる。
 カイジが涎を垂らして寝ていたせいだ。クスリと笑って、顎まで続く濡れた線を唇で辿ると、カイジはパッと顔を背けて寝巻きの袖で口を拭った。
「……んだよ、いきなり……」
 びっくりしたような戸惑ったような顔で、カイジは視線をうろうろさせている。
 その顔を見て、そういえばこんなふうに戯れみたいなキスをしたことなどあまりなかったな、とアカギは思った。

 べつに、なんとなく。

 そう答えようとして、ふいに、アカギは昨晩、普段は滅多にみない夢をみたことを思い出した。
 覚醒前のまどろみの、ピントがボケたような浅い夢で、仔細は覚えてはいなかったが、初秋の縁側にできた陽だまりの中で眠るような、穏やかにくつろいだ夢だったことだけは記憶に残っている。
 
 それは日ごとに厳しさを増していく朝晩の冷え込みと、子どものようなカイジのぬくみが合わさって、疲労の溜まった体に齎された夢だったのだろう。
 今朝の目覚めが良かった訳と、さっきなんとなくキスしたくなった理由に得心がいって、アカギは目を細める。

「夢をみてたよ」

 耳許で囁くと、その脈絡のなさにカイジは「はぁっ?」と気の抜けたような声を漏らしたが、歯磨き粉のミントの香りとともに耳を涼しくするアカギの吐息に、落ち着かない様子で「へ、へぇー、よかったじゃねぇか」とうわのそらで返事をする。
 頓珍漢なその言葉に、アカギもまた「うん」と素直な子どものように頷く。
 それから、身じろぎながら逃げようとする陽だまりのような体を、離れないようにしっかりと抱きしめたのだった。






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