新世界より カイジさん視点



 諸般の事情で、住むところを変えることになった。
 もともとそうたくさん荷物を持っているたちではないので、必要最低限のものを数箱の段ボールに詰め込んだら、家を出る準備は終わってしまった。
 部屋の灯りも点けないまま、足を投げ出して床に座り、この部屋での最後の一本を吸いつける。

 窓の外に広がるのは朝焼けの空。四角い枠の中いっぱいの、紫紺と紅緋のグラデーションを眺めながら、ジーンズのポケットを探る。
 指先に冷たく硬い感触。取り出して目の前に掲げると、複雑な凹凸を持つシルエットが、黎明の光の中にうっすらと浮かび上がる。

 死んでも返さなくていい、って言ったのに。

 心の中で呟いて、鍵を指先で弄ぶ。

 この鍵をオレに返して二ヶ月弱ののち、赤木さんはこの世を去った。
 それはただ一人の男の死に過ぎなかったけど、世界の終わりのような衝撃をオレに与えた。
『7の月』に恐怖の大王なんて降ってこなかったのに、世界は滅亡しなかったのに、九月になってこんなことが起こるなんて。
 寝首を掻かれたかのようだった。
 立ち直るまでに、ずいぶんとかかってしまった。なにせ、オレの世界はそのとき、確かに一度、終わってしまったのだ。
 
 それでも、終末後の世界で日々は容赦なく過ぎていき、全身の細胞がすこしずつ生まれ替わっていくのにつれて、オレの世界も徐々に再生へと向かっていった。

 今はまた、物騒な日々を送っている。
 この住処も、まぁいろいろあって、離れなきゃいけなくなった。

 引き出しの奥に仕舞い込んで忘れていた、前に住んでいたボロアパートのスペアキー。
 疾風怒濤の毎日の中で、最近ではもう、たまにしか赤木さんのことを思い出さない。

 しかし、一度滅んで再生したオレの世界でも、記憶の中の赤木さんの姿はすこしも色褪せることがなかった。

 好きな人がいる。
 今は記憶の中にしかいないのに、眩しい光のような人。
 最後まで自分を保ったまま、静かに終わりを迎えた、泣けてくるくらい強い人。

 さすがにもう泣いたりはしないけど、涙の代わりに長くなりすぎた灰がぽろりと床に落ち、ため息が漏れる。

 嫌になるよな。遠すぎてさ。

 掠れた声でひとりごちて、タバコを揉み消す。
 自分の耳が拾った自分の声は、さほどうんざりしているようには響かなかった。

 本当に手が届かなくて嫌になるけど、最近、それも悪くないなと、ふと思うようになった。
 だって赤木さんは、ずっとあの頃の赤木さんのままだから。
『いつもどおりの俺のまま、終わりを迎えられそうだ』
 そう告げて笑った、その笑顔に嘘はなかったと思うから。

 オレもいつもどおりのオレのまま、いつか終わりを迎えられたなら、好きな人にすこしは近づけるだろうか。
 それはまだ当分先のことかもしれないし、ほんの数分後のことかもしれないけど、好きな人の存在しない新しい世界で、オレは己の死に様を密かに夢みるようになった。
 生きざまよりも死にざまに思いを馳せるのは、ずいぶん新鮮な感覚だった。

 どんな終末が訪れようとも、せいぜい足掻いて足掻いて、泥水飲みまくってからみっともなく死んでやる。
 そうなったら、きっとオレだって、笑って死ねるだろう。
 赤木さんのような幕引きからは嫌になるほど遠いけど、それが今のオレらしい死に方だから。

 鮮やかに雲を染め上げながら、滴るような朝陽が昇り、また新しい一日の始まりを告げる。
 鍵をポケットに捻じ込んで、明日をも知れない日々にふたたび身を投じるため、オレは立ち上がった。



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