一緒に・6




 静かだ。
 荒廃した大地、永遠に昇ることのない太陽、暗黒の世界。

 その只中にひとり、カイジは座り込んでいた。


 この世界に閉じ込められて、いったいどのくらいの時間が過ぎたのだろう。
 途方もなく長い時が経過した気もするし、たったの数分しか経っていないような気もする。

 カイジは膝を抱え、終末のような風景をぼんやりと眺める。
 先刻までは恐ろしくて仕方がなかったはずなのに、今は不思議と、なにも感じない。
 むしろ、心穏やかだった。ここに取り込まれる前は、何事かにひどく悩んでいた気がするのだけれど、今はその内容すら忘れてしまった。
 心の中を占めていた、なにかとても大きな存在が、丸ごとすっぽりと抜け落ちて、体に穴が空いたみたいに軽い。

 その穏やかさと引き換えに、カイジの顔からは、表情のいっさいが抜け落ちていた。
 うつろな瞳は光を失って、深い空洞のよう。
 まるで魂を奪われた傀儡。そんな有様であった。


 そのまま、長い長い時間が過ぎた。
 なんだかひどく眠くなってきて、カイジは抱えた膝に額を押しつけ、目を閉じる。
 すぐに深い眠りへと落ちていこうとするカイジの耳に、遥か遠くの方から、微かな声が聞こえてきた。

 眠りを妨げられ、カイジは眉根を寄せる。
 意識から振り解こうとしても、声はしつこくカイジに呼びかけてくる。
 最初は疎ましく思っていたカイジだったが、徐々に大きく、明瞭になってくるその声に、いつの間にか耳を傾けるようになっていた。

 その声は、不思議とカイジの耳にすんなり馴染み、とても心地よく感じられた。
 ……なにか、とても大切なことを忘れているような気がする。
 聞こえてくる声は、懸命にそれを呼び起こそうとしているかのようだった。

 この声は、どうしてオレを呼ぶのだろう。オレはいったい、なにを忘れてしまったのだろう。
 もどかしく思いながら、カイジはその声に意識を集中させる。
 すると、声はそれに呼応するように、急に明確な輪郭を帯びた。

 ーーカイジさん

 弾かれたように、カイジは顔をあげた。
 大きく見開かれた目。
 ぽっかりと穴の開いていた心の中に、息苦しいほど鮮やかな記憶が、洪水のように押し寄せてくる。

 
 初めて出会った天気雨の日。突然押しかけてきて、突拍子もないことを言い出したのは。
 高台で打ち上げ花火を見たとき、傍に座っていたのは。
 満開の桜の下、膝枕であどけない寝顔を晒していたのは。
 体調を崩したとき、不器用ながらも懸命に看病してくれたのは。
 化け猫に喰われそうになったとき、命の危機を救ってくれたのは。

 ーーいつもどんなときも隣にいて、笑ったり怒ったりしながら、たくさんの時間を一緒に過ごしてきたのは、誰。


 光を取り戻したカイジの目から、ぶわりと涙が溢れた。
 思い出した。なにもかも。
 こんな大切なことを、どうして、忘れていられたんだ?


 涙に濡れた唇を噛みしめ、カイジは立ち上がる。
 辺りを見渡し、少年の姿を探すが、確かに自分を呼ぶ声は聞こえるのに、その姿は見当たらない。

 ーーカイジさん

「お、オレはここだっ……! 聞こえてねぇのかっ……? クソっ……!」
 
 少年からの返事がないことに苛立ち、カイジは取るものもとりあえず走り出す。
 その声の呼ぶ方へ。

 息を切らして走りながら、カイジの目からは絶えず涙が溢れ続けていた。

 もう一度。
 もう一度、あいつに会いたい。

 いや……違う。それだけじゃない。
 呼吸困難に陥りそうになりながら、カイジは大きくかぶりを振る。
 自分の気持ちをごまかすのは、もうやめた。
 大きく息を吸い、全身全霊でカイジは叫んだ。

「オレは、お前が好きだっ……!! ずっと……、ずっと一緒に、生きていきたいっ……!!」

 たとえ、聞こえていなかったとしても。
 叶わない夢なのだとしても。

「すぐに行くからっ……! お前に会いに行くからっ……!! だから、待ってろっ……!!」

 名前を呼ぶ声が、強くなってくる。
 その声だけを頼りに、カイジはひたすら走る。

 走って走って、血を吐くほどに走り続けて、やがて辿り着いた、世界の果て。
 漆黒の空間に浮かぶ真円の鏡の前で、カイジはようやく足を止めた。

 ガクガクと震える膝に手をつき、地面に倒れ込みそうになるのを、すんでのところで耐える。
 肺が壊れそうだ。息をするだけで全身が痛い。
 汗みずくで激しい呼吸を繰り返すカイジの耳に、また名前を呼ぶ声が聞こえてきた。

 ーーカイジさん

 その声は、確かに鏡の向こうから聞こえてくる。
 ひどく懐かしくて愛おしくて、カイジは涙が止まらない。

「くそっ……! 出せよっ……!! 誰の仕業か知らねぇが、人をこんなところに閉じ込めやがって……ッ!!」

 焦燥に駆られギリギリと歯噛みするカイジだが、碧い鏡は知らぬ存ぜぬを通すように、沈黙を守っている。

 ーーこの向こうに、少年がいる。
 カイジは眦を決し、きつく握った拳を振り上げた。

「ここから、出せっ……!!」

 カイジが力いっぱい拳を鏡面に叩きつけると、ビシリと大きな亀裂が入る。
 すると、それに呼応して、暗黒の空にも亀裂が走った。
 割れた空の隙間から、白く眩い光が射し込んでくる。

 拳から血が滴るのも構わず、カイジは何度も何度も、鏡を殴りつける。
 その度に、空や大地も割れ砕けていく。

 そして、ついにカイジが鏡を完全に粉砕した瞬間、世界も粉々に砕け散り、無数の鋭いガラス片のような世界の断片とともに、カイジは真っ白な光の中へと落ちていった。



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