逃げ水 神域視点



 記憶が飛ぶことが増えてから、出歩く機会が極端に減った。
 世話になっている男が危険だと止めるからだが、こう部屋にずっと閉じ込められてたんじゃ、逆に体に悪い。

 今更どこへ行くあてもないが、偶には散歩くらいと、男の目を盗んで幾日か振りに表へ出る。
 一歩外へ踏み出した途端、残暑が体に纏わりつき、初秋の太陽に目を灼かれた。
 反射的に目を閉じても、瞼の裏に赤っぽくも白っぽくも光る残像が明滅し続けている。
 
 軽く目を閉じたまま、暫し佇む。視界を遮ると、代わりに他の感覚が研ぎ澄まされる。
 蝉の声が、随分と少なくなった。残暑は厳しいが、空気は既に澄んだ秋の匂いを含み始めている。
 暫くすると、チカチカと光る瞼の裏、網膜が勝手にある人物の像を結んだ。

 このところ、目を閉じると遥か昔のことが眼前を過っては消えていく。
 とうに忘れかけていた出来事、物、人の姿が、やけに鮮明に、暗幕の上に映し出されるのだ。
 耄碌した脳味噌が見せる単なる幻影なのだろうが、きっとこれが走馬灯と呼ばれるものなのだろう。

 今映し出されているのも、長いこと記憶の底に沈んだまま、名前すら忘れかけていた若い男の姿だった。
 思い出した途端、泉の底から水が湧き出すかのように、その男に関わる記憶が、息苦しいほど溢れ出してくる。
 鼻先を掠めるのは、安普請の狭い部屋の匂い。煙草と酒と、男の匂いの染みついた、ひどく懐かしい匂いだった。


 男とは、ある雀荘で出逢った。当時は、つまらない博奕ばかりで、浮世に飽いていた。その日打った麻雀も、さして目覚ましい物ではなかったが、対面の男がぽかりと口を開けたまま放心しているので席を立つと、野次馬の一人に声をかけられた。

「なぁ、お前、泣いてたろ」
 博奕の後に声をかけてくる輩は大概、褒めそやして擦り寄るか、あるいは言い掛りをつけて金目当ての暴力に走るかのどちらかだったが、男はそのどちらでもないようだったので、珍しさに足を止めた。
 顔を見ると、自分と変わらない年頃の、どこにでもいるような普通の男だった。だがその頬には深く裂けたような傷痕があり、何かを隠すように両手に軍手を着けていたので、訳ありなのだろうということは容易に察せられた。

 男は勝負の中で俺の目に涙が光るのを見て、泣いているのだと思ったらしい。完膚なきまでに叩きのめされ、立ち上がる気力も無くなった男に同情したのだと。
 頓珍漢な男の妄想に、俺はつい鼻で笑ってしまった。自ら追い詰めた相手に同情して泣くなど、飛んだ白痴に見られたものだ。
 一頻り笑ったあと、あれは欠伸が止まらなかったのだと真実を教えてやると、男は鋭く息を呑み、押し黙った。
「欠伸って……、だって、互いの命を張った勝負だったんだろ。負けた奴、失禁してたぜ」
 しどろもどろにそう言われて、オーラスで小便臭い匂いが鼻についた理由がようやくわかった。
 互いの命を張った勝負。確かにそうだった。俺も相手も、手持ちの金などなかったから、敗者は多額の保険金と引き換えに殺されるか、あるいは臓器を取られて殺されるか。いずれにせよ、負けイコール死に直結する博奕であったことは確かだ。
 そんなギリギリの状況で、欠伸をしていたという言い分を男は俄に信じ難いようだったが、退屈で仕方なかったのだからしょうがない。倫理観がどうのと面倒な説教が始まろうものならすぐに立ち去ろうと思ったが、男は唾を飲み、興奮を隠しきれない口ぶりで、嬉しそうに言ったのだ。
「お前……、狂ってんな」


 男に口説かれるまま、その日は男のアパートで夜を明かした。風のない蒸し暑い梅雨の夜、安い発泡酒を片手に、延々と互いが身を投じてきた博奕の話をした。
 男は俺を狂っていると評したが、男も大概狂っていた。完全にギャンブルで脳を焼かれている。耳を自ら切り落とそうとも指を切り落とされようとも、打つのを止められない。それだけでも十分気狂い染みてはいるが、もっとイカれているのは、男が人を信じ続けているということだった。
 生き馬の目を抜く裏の世界で、手酷く裏切られ、殺されそうになっても、愚直に人を信じ助けようとする。死んでいった『仲間』のために本気で涙し、仇を取るためなら自らの命すら惜しげもなく駒にする。
 その点で、男の狂いぶりは俺の上を行っていた。

 俺は男が気に入った。他人に興味を持つのは久しぶりだった。時折アパートを訪ねると、男は不器用に笑って俺を迎え入れた。
 酒を呑みながら博奕の話をし、互いの話をし、偶にトランプや麻雀で遊んだ。
 男は存外弱く、常に負けては涙目で頭を掻きむしっていたが、こんな児戯では男の真価など測れるはずもないことは明白だった。ジリジリと肌を焦がすような、命の遣り取りがあってこそ男は輝く。その輝きを見てみたいと、いつからか思うようになっていた。

 出会ってから数ヶ月が過ぎたある夜、男は俺にある提案を持ち出した。
 何でも近々、大掛かりなギャンブル大会が行われるらしい。そこは男の因縁の相手が開く賭場で、多額の賞金に涎を垂らした有象無象が勝負を繰り広げる、殺伐非情の地獄のような鉄火場になるだろうと男は言った。
 男は俺と組んで、そこへ出たいと言い出した。
「これは千載一遇のチャンスなんだ。いけすかねぇ連中に一泡吹かせてやる。やろう。きっと、オレとお前ならーー」
 爛々と目を輝かせ、内緒話をする子どものように声を潜めて言う男に、俺はなぜかひどく欲情した。
 血がざわついて煮えたぎり、沸騰したように体が熱くなった。まさに寝耳に水といったその劣情に流されるまま、俺は男に手を伸ばした。
 長い髪を手に巻き取りながら無理矢理唇を奪うと、歯が当たって嫌な音を立てた。信じられないものを見るかのように見開かれた目と、口の中に滲む血の味に、頭がおかしくなりそうなくらい興奮して、俺は男を固い床に押し倒したのだった。


 その夏はひたすら爛れていた。暇さえあれば男と体を繋げていた。男はそういう行為に積極的ではなかったが、さして抵抗もしなかった。男を受け入れるということに嫌悪を示すでもなく、ただ戸惑うように視線を彷徨わせていた。
「お前にこんな趣味があるとは思わなかった」
 腕の中でちいさくそう漏らした男が、果たしてどんな顔をしていたのかは思い出せない。オレも自分に驚いてるよと正直な気持ちを吐露しながら、俺は男の肌に体を埋めた。


 もともと性欲は水で伸ばしたように薄く、色事に対する興味や関心も皆無だったはずなのに、どうしてあんな風になってしまったのか。
 当時は不思議で仕方がなかったが、今ならわかる。

 おそらくあれが、正真正銘、俺の初恋だったからだ。
 それまで欲が薄かったのは、単純に、それを向ける相手にまだ出会っていなかったからだ。
 今まで知らなかった、知ろうともしなかった恋愛感情や、欲望を向ける相手が現れて、それまでの分を取り戻そうとするかのように、止めどなく情動が湧き上がった。   
 その夏の俺は思春期のガキそのものだった。知り初めたばかりの熱く煮えたぎる欲望を、一心不乱にその男に注いだ。
 男は涙をいっぱいに湛えた目で、それでも俺を受け入れた。あんな無体を赦してくれたのは、男が度を超えたお人好しであるということだけでは説明がつかない。自惚れではなく、男も自分を好いていてくれたのだということを、やはり後にあれが初恋だったと気づいた時、俺はようやく悟ったのだった。


 しかし男と肌を重ねれば重ねるほど、いつまでもこうしてはいられない、と反発するような気持ちが強くなっていった。
 当時は、こんな微温湯の生活を続けていくことを精神が拒んでいるのだと錯覚していたが、今にして思えば、あれは本能的な危機感だったのだ。
 男に溺れることへの危機感。己以外に、信じたいものが出来てしまうことへの危機感。
 ひたぶるに赤の他人を信じ切り、己が命さえ賭けてしまえる男に比べ、俺は未知の感情の発露に対し怖れに近い警戒心を抱く、ひ弱なガキそのものだった。

 いつまでもこうしてはいられない。
 男の話した賭場の開かれる前夜、俺は男にそう告げた。
 大きな目を見開いて、男は暫し俺を見つめていたが、やがて遣る瀬無いような溜息をつき、窓の外に目を遣った。
「ーーもし……お前が居なくなったとしても、諦めねえからな、オレは」
 呻くように呟いて、男は目を閉じた。泣くのを耐えているのだと、すぐに判った。俺が別れを切り出すことを、男はきっと察していたのだと思った。
 そんな機微に気づいてしまうくらい、男と俺は濃密な時間を重ね過ぎていた。
 たったの数ヶ月。俺が手前勝手に繋がりを濃くしていったこの関係を、俺が手前勝手に終わらせた。

 白々と夜が明ける頃、疲れて眠る男の寝顔を暫し眺めてから、そっと部屋を後にした。
 お前が居なくなったとしても諦めないーーその言葉通り、男は明日の賭場で勝利を掴み取るだろう。誰に頼ることもなく、己の力のみで。
 その輝きを、隣で見ることができなかったことを少しだけ惜しく思いながら、俺は夏の朝靄の中を歩き出したのだった。



 その時聞いた早朝のまだ少ない蝉の声と、初秋の疎らな蝉の声とが重なって、ゆっくりと水底から浮かび上がるように、俺は過去の幻影から解き放たれた。

 飛んだ走馬灯もあったものだ。こんなにも濃密な、初恋の記憶さえ忘れ去っていた自分に呆れ、ひとり忍び笑いを漏らす。
 ゆっくりと瞼を持ち上げる。
 眼前に、真っ直ぐに伸びた道。遠くの方に、ゆらゆらと揺らめく陽炎が立ち昇っている。
 その真下、煮え滾るような黒いアスファルトの上に、青い空を照り返してきらきらと光るものが見えた。

 渇きを満たす、綺麗な幻。近づけば近づくほど、遠くへ逃げていく。それが男と過ごした日々と似ているように感じられ、柄にもないその連想に更なる苦笑が漏れる。
 きっと半刻も経たない内に、この穴だらけの脳味噌はまた、男のことなど綺麗さっぱり忘れてしまうのだろう。
 とうに慣れ切った諦念とともに歩き出そうとしたその時、その水の向こうに、ゆらゆらと揺らめく男の姿を見た。
 思わず足を止め、目を眇める。壊れかけた己の脳が見せるまやかしかと危ぶんだ。あるいは白昼夢かとも。
 しかし極端に視野の狭くなった目線の先に、確かに男は立っていた。
 此方に向かってゆっくりと歩いてくるその姿に、一瞬思考が止まった後、自然と口角がつり上がっていくのを自覚していた。

 その瞬間、俺は思春期のガキ同然だった、あの十九の夏に戻っていた。
 男に逢いたいと、強く思った。まやかしだろうが白昼夢だろうが構やしない。こんなにも強い情動が自分の中に残っていたことに驚きつつ、俺は金縛りにあったように一歩も動けないでいた。
 逃げ水のように、不用意に近づけば逃げていくような気がして、その場に立ち尽くすことしかできなかった。恋は人を臆病にすると昔誰かが言っていたが、その通りだと思った。俺は今、臆病なただひとりの男だった。
 あの頃本能的に危機感を覚えたのも、こうなることを無意識下で忌避していたからなのだと悟った。

 その場に突っ立ったままの間抜けな俺を嘲笑うかのように、男は歩き続け、とうとう陽炎から抜け出した。
 靄が晴れたようにくっきりと鮮明になった男の姿は、当然自分と同じく老けてはいたが、不思議と俺の目にはあの頃と何一つ変わっていないように見えた。先程まで瞼の裏を過去が過っていた所為だろうか。男との距離が一歩、また一歩と縮まる度、空気までもが様相を変え、あの夏に戻っていく気がした。

 やがて、男が俺の前に立った。白いものが混じる艶のない黒髪、ごわついた肌、深い皺の刻まれた顔。その中にあって、異様なほど強く光る双眸が俺を睨み据える。その目を見ただけで、男がどんな風に今まで生きてきたのか、手に取るように判った。
「……手間取らせやがって。何十年探したと思ってやがる」
 罅割れた声で吐き捨てて、男は俺の肩を小突いた。
 息苦しいほどの感情を持て余し、言うべき言葉も見つからない俺を他所に、男はさらに続ける。
「言ったろ。お前が居なくなったとしても、オレはお前を、諦めねえって」
 その言葉で初めて、あの時男が『諦めない』と言ったのが博奕のことではなかったのだと知って、俺は本当に久しぶりに、男と過ごした若い頃のように、声をあげて笑ってしまったのだった。




[*前へ][次へ#]

9/33ページ

[戻る]