ガラスの魚


 ぽつり、とちいさな雫が頬に当たり、アカギは空を見上げた。
 漆黒の夜空から、霧のように細かな雨が落ちてくる。
 昼間熱されたアスファルトから、むっとした独特の匂いがたちのぼってくる。

 見るともなしに足元へ視線を投げると、そこにへたり込んでいた男が悲鳴をあげた。
 元の顔がわからないほど腫れたその顔の中、潰れた双眸は怯えきっていた。まるで化け物を見るかのような目つきだった。
 尻餅をついた体勢のままズルズルと後ずさると、男はアカギに背を向け、わき目もふらず一目散に逃げ出した。
 周りには昏倒させられた仲間たちがゴロゴロ転がっているというのに、なんとも薄情な男だ。

 あちこちからあがる弱々しいうめき声を聞きながら、アカギは血のついた拳を服の裾で雑に拭う。
 遠くでパトカーのサイレンが鳴っている。突然背後から殴りかかってきたのは連中の方で、アカギは売られた喧嘩を買ったに過ぎないのだが、警察にそんな言い分が通るはずもない。
 面倒なことになる前にと、折り重なるようにして倒れている男たちを悠々と跨ぎ越し、アカギはその場を後にした。


 熱を持った頭と体を、小糠雨が急激に冷ましていく。
 路地裏のちいさなスナックの壁に背を預け、アカギは短く息をついた。
 毒々しい蛍光色のネオンサインに照らされながら、血の味のする唾を吐き捨て、タバコを取り出そうとポケットを探る。
 だが、こつん、と指先がなにか硬いものに当たり、アカギは細い眉を寄せた。

 取り出してみると、それは魚の形をした透明なガラス細工だった。
 なめらかな流線型のフォルム。透き通った体の中に、細かな気泡がたくさん浮かんでいる。それはこのガラス細工が安物である証拠ではあったが、しかしそのちいさなあぶくが、澄んだ水をそのまま閉じ込めたかのような、不思議な趣を感じさせる。


 アカギはそのガラス細工に見覚えがあった。
 先日、訪ねた男の部屋で押しつけられたものだ。


「これ、やるよ」
 そう言って差し出された手のひらの上で、ガラスの魚は静かに蛍光灯の光に体を透かしていた。
「お前みたいなガキには、お似合いだろ。こういうの」
 男はそう言ってニッと笑った。

 酔っ払って立ち寄った縁日で、男はこの魚を手に入れたのだという。
 ガキなのはあんたの方じゃねえか。
 アカギはそう言い返したが、思ったより険のある口調になった。
 まるでムキになっているような物言いに、男はニヤリと口の端をつり上げる。
「どんなに大人ぶってても、まだまだガキなんだよ、お前は。オレに取っちゃあな」
 アカギがなにか言う前に、男は素早くアカギの手を取り、ちいさなガラス細工を握り込ませた。
 いらねぇよ、こんなもん。
 すぐさまアカギは投げ返そうとしたが、逆になにかやわらかいものをふわりと投げ渡される。
「いつまで経っても、そうやって血だらけになって帰ってくるしな」
 男は顔をくしゃっとさせて笑う。

 まるで出来の悪い弟を見るかのような目つきだった。
 タイミングを逸したアカギは低く舌打ちし、仕方なく、ガラス細工をポケットにねじ込んだ。
 あとでひどい目に遭わせてやる、と目の前の男を睨みながら、頭から流れる血を、タオルで強く擦るようにして拭ったのだった。



 その時のことを思い出し、アカギはひどい仏頂面になる。
 あのあと、朝方まで男をひどい目に遭わせてやって、そのときはそれで溜飲が下がったけれど、今でもあのときのことを反芻するだけで、面白くない気分が蘇ってくる。

『まだまだガキなんだよ、お前は。オレに取っちゃあな』

 そう言って破顔する男の、どこか嬉しそうな口ぶりと、やわらかい眼差し。
 思い出すだけで煩わしくて忌々しくて、男をまた滅茶苦茶にひどい目に遭わせてやりたくなる。

 だけど今夜会いに行ったら、きっとまた、だからガキなんだとか笑われて、タオルを投げつけられるに違いない。

 さっき取り出したときに、ガラス細工の魚に付着した赤黒い血の跡を見ながら、アカギは苦々しげに舌打ちをする。

 深層では、アカギは男に会いたいと思っているのだ。だけど、変にねじけた心が、それを阻んでいる。
 喧嘩や賭事に滅法強く、裏社会では天才だの悪漢だのと噂されるアカギだが、男の前では、出会ったばかりの中学生の頃と変わらない、子どものようなひとりの青年なのだった。

 ひんやりとつめたい感触の、透明な魚。
 それを無造作にポケットにねじ込むと、この喧嘩の傷が癒えるまでは意地でも男のところへは行くまいと心に決め、アカギはタバコに火をつけたのだった。





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