一緒に・5
カツン、と音をたて、沓底が地を踏む。
池の底に到達したことを知り、青年は顔をあげた。
そこに広がるのは、別次元の世界。
どこまでも続く黒い大地。
天の色は、禍々しい赤錆。
生ぬるい風に乗って、血の匂いと亡者の呻き声が漂ってくる。
冥界の王が支配する世界。
古より、人間が『地獄』と呼び、恐れてきた場所である。
青年は白い狐耳を立て、神経を集中させる。
すると、ごく微かではあるが、カイジの気配を感じ取ることができた。
青年は険しい表情こそ崩さなかったが、安堵したように、軽く息をついた。
今にも風に掻き消されてしまいそうな、カイジに繋がる糸を慎重に辿るように、青年は歩き出す。
地獄を支配する鬼どもは、山のように巨大な体を持っている。
その足で、もと人間である亡者を、いとも容易く踏み潰し、逃げ惑う者の体に爪先を刺して摘み上げては、口に放り込んで擂り潰すのだ。
酸鼻を極める光景の中を、虫けらのようにちっぽけな稲荷神が進んでいく。
地獄の底にあってもなお、白く輝くように清廉なその姿を、罪人の返り血や汚物に塗れた鬼どもが、目を剥いて睨みつけていた。
八つの地獄を越え、ほんの僅かな気配だけを頼りに、果てしない道のりを歩き続ける。
やがて、青年の前に、巨大な真紅の門が現れた。
青年の背丈の何十倍もあるその門は鉄で出来ていて、亡者の血で染められているようだ。
閉ざされた門の両脇には、同じくらい巨大な二体の鬼が立っていた。
今まで見てきた鬼の倍近くはある巨人の胴体に、首から上はそれぞれ、牛と馬。
どうやら、この門を守っているようだ。
カイジの気配は、閉ざされたその門の向こうから漂ってくる。
青年が歩みを進めようとすると、牛頭の鬼が巨大な棍棒で地面を打ちつけた。
凄まじい地響きととともに、黒い大地が大きく罅割れる。
ふらつきもせず、真っ直ぐに立って前を見据える青年に、牛頭の鬼は鼻から荒い息を吐き出した。
「ーー天界の住人が、此処で何をしている」
獣の吠え声のような雑音混じりの声が、『返答次第では押し潰す』と言外に伝えてくる。
青年はすこしも怯むことなく、凛とよく通る声で答えた。
「この門の向こうに用がある。ーー通せ」
不遜な言い方に、もう片方の馬頭の鬼が、巨大な鋭い槍を青年に差し向けた。
「我らが王に何用だ。王に謁見が赦されるのは、この地獄でもほんの一握りの鬼のみ……」
ブルル……と鼻を鳴らし、馬頭の鬼は凍るような目で青年を見下ろす。
二体の鬼は、どうやら青年を通す気はないようだ。
それならば、実力行使で押し通るまでだ。
青年は低く構え、自分より遥かに大きい鬼どもと真っ向から対峙する。
一触即発の状態。互いにいつ仕掛けるか、間合いを図っていた、そのとき。
ーー構わぬ。その小僧は、わしの客じゃ……
静けさと激しさを併せもつ、ただならぬ声が門の内側から響いた。
青年の耳がピンと立つ。なにか、とてつもなく大きな力の気配が、門の向こうから漂ってくる。
二体の鬼は声に従い、動きをピタリと止めた。
不満げに唸り声をあげつつも、門の両脇に戻る。
すると、閂が外される重い音がして、地響きをたてながら、血塗られた扉がゆっくりと開き始めた。
人ひとりすり抜けられる隙間ができると、青年はすぐに体を滑り込ませた。
門の両脇に立つ鬼どもの凄まじい視線を受けながら、青年は冥界の王の部屋に入る。
薄暗い部屋に一歩足を踏み入れた瞬間、青年の体に電流のような衝撃が走った。
生皮を剥がれるような痛み。思わず目を眇め、掌を見ると、ひと回りちいさくなっていた。
この部屋を支配する強力な結界に力を奪われ、強制的にもとの少年の姿に戻されたのだ。
部屋の両脇にずらりと並ぶ誰也行灯に、青白い炎が灯る。
舐めるような灯りに照らされ、部屋の全貌が明らかになった。
少年の目の前に、巨大な長い登り階段が伸びており、その頂に、先ほどの牛頭、馬頭とは比べものにならぬほどの、巨大な鬼が鎮座していた。
血管を編んで作られたような真紅の衣に、闇を集めて織り込んだような漆黒の帯。
血塗られたように赤い顔は、老獪な鷲のように獰猛だ。
世界の果てはおろか、遥か未来や過去までをも見通せると言われる、金色の瞳。
凄まじく恐ろしい顔つきのなかに浮かぶのは、まるですべてに飽いているかのような、どこか物憂げな表情。
深く腰掛けている椅子は、轟々と燃え盛る炎で出来ていた。
『王』の文字が目を引く真紅の帽子。豪奢にそれを飾るのは、黄金の龍を象った飾り。
龍は天帝の象徴である。それを身に付けているということは、冥界の王が天帝と対等な地位にあることを意味していた。
魂が最後に流れ着く場所という意味では、天界もこの冥界も、同じ役割を果たしているからだ。
冥界の王ーー閻魔大王。
その外見から滲み出る強大な力は見る者を圧倒させ、目の前に引っ立てられた地獄の亡者は、自然と膝をついて平伏してしまうとさえ言われる。
少年は背筋を伸ばしたまま、冥界の王と対峙する。
暫し、値踏みするように少年の姿を見下ろしたあと、閻魔は物憂げに口を開いた。
「……貴様如き下等の神が、冥界の王であるこのわしに何用じゃ」
閻魔が言葉を発するごとに、空気が震え、無数の礫を投げつけられるかのような衝撃波が少年の体に伝わってくる。
それに怯むことなく、少年は顎を上げて毅然と言い放った。
「カイジさんを、返せ」
その声はよく通ったが、自分より遥かに小さき神の言葉に、閻魔は酷く聞き取りにくそうに眉を寄せる。
まるで、人間が虫けらの言葉に耳を傾けようとでもしているかのような仕草。
「ーーあれが、人間の贄を寄越してきたな。取り戻しに来たか」
閻魔は馬鹿にしたように鼻で笑う。
『あれ』とは、天界のことを示しているのであろう。
「カイジさんは、贄なんかじゃない」
白い毛を逆立て、怒りを露わにする少年。
閻魔はギョロリと血走った目を剥いた。
「贄では……ない、と?」
意外そうに呟いたあと、閻魔は巌のような肩を揺らす。
「贄でもない人間に執着し、この冥界まで追ってくる馬鹿がいるとは……、まこと、腹が捩れるわい」
喉を震わせて嘲笑う閻魔に構わず、少年は両手をスッと前へ突き出し、空中で鯉口を切る仕草をする。
目に見えない鞘からスラリと引き抜かれた刀身は、地獄の極端に少ない光を集め、朝露に濡れたように輝く。
巨大な瞳には針のように映るその刀に眉を跳ね上げ、閻魔は文字通り、鬼の形相に表情を一変させた。
「貴様如きがわしに楯突くとは……その思い上がり、後悔するが良い……」
閻魔がすこし語気を強めただけで、硝子片が全身に突き刺さるような痛みが少年の体を襲う。
会話を交わすだけでもわかる、圧倒的な力の差。
少年は意識を集中させ、今一度、青年の姿になろうと試みたが、目に見えないなにかに阻害されてできない。
「無駄じゃ。この空間すべてが、わしの力の影響下にある……貴様は言わば、わしの掌の上にいるも同然ということじゃ……」
すべてを悟ったかのような声が、少年をせせら笑う。
つまり、少年は全力を発揮することすら、赦されないとうことだ。
絶望的に不利な闘い。
それでも、一歩も退かずに刀を構える少年の姿に、閻魔はくつくつと喉を鳴らした。
「威勢が良いな、小僧。精々、愉しませて貰おうか……矮小なその命、尽きるまで」
笑い声を響かせる閻魔の体が、溶けるようにして真っ黒な霧に変わる。
その霧は広がり畝り、幾度も複雑に形を変え、やがて巨大な黒い龍となって、少年の前に姿を現した。
全身を覆って濡れ光る黒い鱗一枚とってみても、少年の背丈の数十倍の大きさがある、地獄の闇の化身。
ひと睨みするだけで、人の魂を奪い、意志のない傀儡にしてしまうと言われる、禍々しい黄金の瞳。
怯むことなくその瞳を睨み返し、少年は初手の一歩を踏み出した。
ーーカイジさん。
姿は見えなくとも、きっと近くにいるであろう想い人に、心の中で強く呼び掛けながら。
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