ギャップ


 ぶぇっくしょいっ!

 静かな通りいっぱいに響き渡るようなくしゃみをして、ずびずびと鼻をすするカイジに、
「オッサンくせえ」
 しげるがぼそりと吐き捨てると、無言で蹴りが飛んできた。

「さっみ……」
 はーっと白いため息を吐きながら、猫背をぶるりと震わせるカイジ。
 この季節になるといつも着ている黒いダウンジャケットは、相当年季が入ったものなのか、中綿がしぼんでくたっとしているし、生地もところどころ痛んでいて、見るからに防寒着としての寿命をとっくに超えている。
 化石のようなそのジャケットを新調しない理由など、本人に直接訊かずとも明白である。
 おそらく同じ理由で長いこと伸ばしっぱなしの髪と、上背はあるくせに背中を丸めて歩くクセと、気だるげなその表情。
 それらが絶妙に合わさると、まるで。
「野良犬」
「あぁ? ……いねぇじゃねぇか、そんなもん」
 しげるの呟きに反応し、きょろきょろと辺りを見回すカイジ。
 その間抜け面に失笑を漏らしてから、しげるは青い空を見上げた。


 雨あがりの空は高く透き通っている。道のあちこちにできた水たまりに、太陽の光が反射してきらきら光っている。
 空気は澄み、鳥のさえずりさえ聞こえてくるような、気持ちのいい昼下がりだ。

 ーーすれ違う通行人の誰ひとりとして、こんなにもひどいツラで歩いている人間はいない。
 しげるはカイジに視線を移す。
 おおかた、不摂生と寝不足と金欠のせいだろうが、目の下に大きなクマをこさえてトボトボ歩くその姿は、穏やかな冬の晴れ間にはミスマッチすぎて、街中から妙に浮いているようにさえ見える。

 しげるはカイジのこういうところに惚れたわけじゃないはずなのに、いつのまにか、こういうところも面白いなんて、素直に思うようになっていた。
 大きなギャンブルのときに垣間見せる、研ぎ澄まされた表情とは似ても似つかないのに、恋とは不思議なものである。
 今にも欠伸を漏らしそうな横顔を、まじまじと観察していると、
「……んだよ」
 拗ねたように横目で睨んでくる、その表情さえ可笑しくて、しげるは機嫌よく喉を鳴らす。

 べつに、なんでもない。
 そう、言おうとした。

 だが、いきなり横から伸びてきた腕によって、しげるは声をあげることはおろか、口を開くことすらできなかった。

 強く肩を掴まれ、なんの躊躇いもなく、ぐいっと引き寄せられる体。
 軽く見開いたしげるの目に映ったのは、さっきまで隣を歩いていた野良犬とはまったくべつの生き物のように、鋭い目で道の方を睨む精悍な横顔。
 ひと呼吸遅れて、派手に水たまりの泥水を跳ねさせながら大型トラックの走り去っていく音が、しげるの耳に届いた。
 熱いくらいに近くなった体温と、タバコのにおい。

「……クソドライバー……こんな細ぇ道でスピード上げてんじゃねぇよ……」
 しげるの肩を抱き込んだまま、カイジはぶつぶつと文句を言う。
「大丈夫か? しげる」
 やけに真摯な顔で顔を覗き込まれ、しげるはようやく、カイジが水跳ねから自分を守ったのだということに気がついた。

「……」
「しげる?」
 押し黙っていると、眉を寄せて訝しげに名前を呼ばれる。
 それに答える代わりに、しげるはカイジの足を思いきり踏みつけた。
「いってぇっ……!?」
 肩を抱きこんだ腕をパッと離して喚くカイジを放置して、しげるはさっさと歩き出す。
「ぁにすんだてめぇっ……! 待ちやがれコラっ……!!」
 ドスのきいた声が、後ろから追いかけてくる。

 きっとカイジには、しげるの行動が、不可解でしょうがないのだろう。

 守ってくれなんて、頼んじゃいないのに。
 女子じゃあるまいし、泥水に濡れるのなんて平気だから、大型車の近づく音は聞こえていたけれども、しげるは構わずカイジを眺めていたのだ。

 それなのに、まるで不意打ちみたいに、オレがあんたに惚れたときとおんなじ顔、見せつけてきやがって。
 ついさっきまで冴えない野良犬みたいなツラしてたくせに、あんなふうに豹変するなんて。

 なぜかイライラして、ついでにムラムラして、しげるはチッと舌打ちする。
「帰ったら、あんたのことめちゃくちゃに抱くから」
 その一言で、騒がしく喚く声は水を打ったように静かになった。
 年上の恋人の腕を強引に掴み、なかば引き摺るようにして、しげるはアパートへの帰路を、怒ったみたいに歩いていくのだった。




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