youthful days 学パロ



 昼の光が射しこむ校舎の中はがらんとしていた。
 ブラスバンドの演奏する『仰げば尊し』と、それを掻き消すような人々の声が、窓越しに籠って聞こえてくる。

 窓の外を見下ろすと、学ランとセーラー服の生徒たちで、正面玄関の前には文字どおり黒山の人だかりができていた。
 その中にぽつりぽつりと混ざる、女教師の艶やかな袴の色が、ちいさな花のようだ。

 堅苦しい式典がついさっき終わり、卒業生も在校生も教師も入り乱れて、写真を撮ったり、花束や記念品を渡したり、泣いたり笑ったりしながら、それぞれの別れを惜しんでいる。


 その賑々しさとはまるで別世界のように静まり返った校舎の中を、カイジはゆっくりと歩く。

 特別教室棟の廊下を折れ、屋上への階段をのぼり、重い鉄の扉を押し開くと、鉄柵の前に立っていた学ラン姿の人影が振り返った。
 白い髪をきらきらと陽光に透かしながら、薄い唇を撓めるアカギ。
 あらかじめ、カイジが来るのがわかっていたかのようなリアクションに、なんだかこそばゆい気持ちで「よぉ」と声をかけながら、カイジはその隣に立つ。

 この三年間、校内で待ち合わせなどしたことはない。ふたりの関係が周りに勘づかれることを、カイジが異様なほど警戒していたからだ。
 だけど、騒がしい日々のなかでふと、ふたりきりになりたい、と思ったとき、この場所で落ち合うのが、ふたりの暗黙の了解となっていた。
 誰も来ることのない、静かでだだっ広い屋上。
 うっすらと霞のたなびく青空に、吹奏楽部の演奏と、街の音が遠く響いている。

 カイジがここへ足を運ぶときには、だいたいアカギの方が先に来ていて、「よぉ」という気の抜けたようなカイジの声から、ふたりの時間が始まったのだ。
 あたりまえのことのようにアカギに迎え入れられる瞬間が、学校でふたりきりになれるこの場所が、カイジの密かなお気に入りだった。
 でもそれも、今日で。
「今日で終わりだな。ここへ来るのも」
 カイジはアカギの横顔を見る。
 まるでカイジの心を読んだかのような呟きだったが、不思議な色の虹彩は遥か遠くを眺めていて、その真意を推し測ることはできなかった。

 黙って頷いてから、カイジはふと、眉間に皺を寄せる。
「……お前、ボタン……」
 だらしなく開かれたままの学ランの前からのぞく黒いシャツを眺めながら、
「さすが、もてる男は違うってやつか」
 呆れまじりに茶化してやると、アカギは肩をすくめ、ボタンがほとんどなくなっている学ランに視線を落とす。
「囲まれて面倒だったから、適当に外して渡してきた」
 なんでこんなもん欲しがるのか、皆目わからねぇな……と、そっけない口ぶりで言うアカギに、カイジは閉口した。
 
 晴れの門出の日だというのに、アカギはいつもどおり派手に遅刻した上に、卒業式には顔すら出さなかった。
 それでも、恋する乙女たちはどうにかアカギのボタンを手に入れようと、勘と執念でアカギを探し出し、あるいは待ち伏せていたのだろう。

 その行動力に舌を巻きつつも、カイジの心にほんのすこしだけ靄がかかる。
 それを晴らそうとするように、ポケットからタバコを取り出して、一本咥えた。
「どうしたの。急に押し黙って」
「……べつに……いつもと変わんねぇだろ」
 くぐもった声で返事をすると、アカギは眉ひとつ動かさぬまま、そう、と答えた。
「まぁいい。それよりさ、カイジさん」
「んー?」
 ライターどこ入れたっけ、と、学ランのポケットを探りながら生返事を返すと、アカギの気配がスッと近づいてきたので、カイジは思わず手を止めた。
「あんたの分、残してあるんだけど」
 顔を覗き込むようにして言われ、なんのことだかわからずに眉を寄せるカイジ。
 だが、アカギの胸のあたりでキラリと輝く金色が目に入り、鋭く息をのんだ。
「……っ、おま、それ……」
「これだけは、惚れた相手に渡すもんなんだろ」
 淡々と答えるアカギと、絶句して固まるカイジ。
 咥えたままだった新しいタバコが、半開きの唇からポロリと落ちたが、そんなことにも気がつかないほど、カイジは動揺していた。

 アカギの学ランに唯一残っているのは、上から二番目のボタン。
 古式ゆかしき第二ボタンの迷信など、浮世離れしたこの男が知っていたとは思えない。十中八九、女子生徒たちから吹き込まれたのだろう。
 このボタンを欲しがる女子など、きっと掃いて捨てるほどいたのだろうから。

 それでも、と、カイジはわけもなく赤面しながら言い返す。
「こんなもん欲しがる気持ちがわからねぇ、って、お前さっき……」
「そうだけど。でも、あんたは欲しいのかな、って思ったから」
 すぐ側でそんなことを囁かれ、カイジはますます顔を赤くする。
 んな女々しいこと言うわけねぇだろっ……! なんて言い返してやりたいけれど、きらきらと太陽の光を弾くボタンに目を眩まされてしまったのか、言葉が喉に詰まって出てこない。

 喘ぐように息をするカイジに、アカギはクスリと笑い、さらに一歩、距離を詰める。
「……いらない?」
 意地の悪い切れ長の双眸が、至近距離で笑っている。
 カイジはこれ以上ないほどの渋面になったが、チッと小さく舌打ちして、ぼそりと吐き捨てた。
「……いるよっ……」
「そう。じゃあ、自分で外しな」
「……ッ!!」
 カイジは唇を強く噛み、アカギの顔を睨みつける。
 その視線を受け、アカギはますます愉しそうに目を細めた。

 女子たちには『適当に外して渡してきた』のだと、アカギはたしかに言っていた。
 つまり、互いの体が限界まで近づくこの行為を、アカギはカイジにだけ要求しているのだ。
 どうしようもない羞恥にクラクラしながらも、カイジは結局のろのろと腕をあげ、アカギの学ランの胸許に手をかけた。

 幾分ためらってから、そっと金色のボタンに触れる。
 指先に、ひんやりとした感触。
 そのままボタンを指で押し、学ランの生地を返して、プラスチックの裏ボタンからフックを外す。

 ものの三十秒もかからない、なんてことのない動作。
 だが、ほぼ抱き合っているような距離から注がれる視線を、頬をくすぐる息づかいを、ほのかに感じるアカギの匂いを、感じるたびにカイジの指は震えてしまい、うまく動かすことができない。
 触れている箇所から伝わる体温や拍動が、ますますカイジの調子を狂わせる。


 いつもの倍の時間をかけて、カイジはどうにか、アカギの第二ボタンを外すことができた。
 無意識に止めていた息を大きく吐き出すと、緊張に固くなっていた体が、するするとほどけるように弛んでいく。

 まるで一仕事終えたかのような疲労感。
 額に噴き出た汗を手の甲で拭おうとすると、やんわりと手首を押さえて阻まれ、代わりにアカギの額がこつんとくっついてくる。
 むっつりと押し黙るカイジの目の前で、猫のような瞳が笑い、すぐに唇が重なった。
 やわらかな春のそよ風が、ふたりの体を包みこむ。

 すこし長めのキスのあと、どちらからともなく唇を離して、名残を惜しむように、ふたりは軽く息をつく。
 カイジは無意識に強く握りしめていた拳を開き、ころんとした丸いボタンに目を落とした。

 アカギの心臓にいちばん近い場所にあった、あたたかな鈍い金色の輝き。

 まるで生命そのもののようなその光に、カイジがじっと見入っていると、ちいさな欠伸をしたあとに、アカギがぽつりと呟いた。

「とりあえず、明日、どこへ行こうか」
「え?」
 思いがけない言葉に、カイジは目を丸くする。
「ここに留まってもいいし、旅に出てもいい」
「は、ちょ、ちょっと……」
「行ってみたいところがあるなら、あんたに合わせるけど」
「ちょっと待てってっ……!!」
 アカギが急になにを言い出したのか本気でわからなくて、カイジはひどく面喰らう。
 混乱に肩で息をするような有様のカイジを、アカギはすました顔で見つめ、
「進路希望調査に書いたでしょ」
 しれっと、そんなことを言い放った。
 カイジはぶんぶんと首を横に振る。
「いやいやいや……お前、あれは……」
 確かに、最後の進路希望調査を提出するとき、第一希望の欄に、アカギが自らの名前を書いたことがあった。
 だけど、カイジは無論、そのあとに消しゴムでその名前を綺麗さっぱり消し去り、代わりに『とりあえず卒業』などという、ふざけた回答を書き込んだのだ。
 もちろん、担任から大目玉を喰わされることになったが、最後まで落第寸前だったカイジにとって、それはそこそこ真剣みを帯びた答えだったのだ。

 無事、卒業に必要な単位を取得できて、めでたく今日の日を迎えることができたわけだけれど、今まで目の前のことに手一杯で、卒業したあとのことなんて、正直、なにも考えていなかった。
 とりあえずアルバイトでも探しつつ、好きなギャンブルで一攫千金、などと、戯けたことをぼんやり考えていたのだけれど……

 何をか言わんや、というような顔で、食い入るようにアカギの顔を見つめていると、アカギは細い眉をあげた。
「明日は都合が悪い?」
「いや……そういうわけじゃねぇ、けど……」
「就職とか、進学の予定でも、あるの」
「んなもんねぇよっ……! お前もよく知ってんだろうがっ……」
 情けないことを大声で吠えるカイジに、アカギは喉を鳴らして笑う。

「じゃあ、いいじゃない。オレは、この先も、あんたと生きてみたいよ」

 まるで春のそよ風みたいに、やさしく凪いだ声。
 シンプルな言葉は耳に入った瞬間、カイジの魂にすうっと溶け込んで、あっという間に胸をいっぱいにしていく。
 鼻の奥がツンと痺れて、視界が滲む。
 とたんに熱いものが溢れそうになり、慌ててうつむくカイジに、アカギは口端をつりあげ、問いかけた。
「どう?」
 愉しい悪だくみを提案する、子どものような口ぶり。
 金はどうすんだ、とか、家族にどう説明つけんだよ、とか。
 いろいろと突っ込むべきことが頭の中に浮かぶけれど、不思議なことに、それらはまるであぶくみたいに、浮かんだ端から消えてしまう。

 ーーそんな声で誘われちまったら、返事なんてひとつしかできっこねぇだろうが。
 ぐす、と鼻を啜ったあと、カイジはゆっくりと深呼吸して、それからニヤリと不敵に笑った。
「あぁ……オレもだよ。アカギ」
 腹の据わったようなその言葉を聞いた瞬間、アカギは軽く目を伏せ、ふっと笑う。
「それじゃ、行こうか。カイジさん」
 そう言うが早いか、アカギはカイジの手を掴み、階段の降り口に向かって歩き出した。

 その強引さに慌てながらも、カイジはアカギを咎めることができなかった。
 思い出したからだ。
 すべての始まりの日のこと。

 上級生に絡まれていたアカギの腕を引いて逃げだした、そのときの手のぬくみ。
 息を切らして駆け抜けた、校舎裏の草むらから香る、淡い春の匂い。
 とっさに隠れた焼却炉のそばで、不思議そうに自分を見つめていた、今より幼い切れ長のまなざし。
 
 まるで昨日のことのように鮮明に蘇ってきて、カイジは胸がきゅっと狭くなるような気持ちになる。
 初めて会ったときとは逆に、カイジはアカギに手を引かれ、誰もいない校舎の中を、なかば駆けるようにして通り抜けていく。

 窓から射しこむ、白っぽい春の光。
 眩しさに目を眇めると、廊下に、教室に、今まで重ねてきたアカギとの日々が、照らし出されているような気がした。
 それはまるで、手のひらに握りしめている金色のボタンのように、きらきらと、やさしく光る日々だった。

 きっとこれからの日々も、そんなふうに輝くのだろう。
 ふたりで生きていけるのなら。
 
 リノリウムの床を駆ける足音が、廊下いっぱいにこだまする。
 なんだか無性に愉しくなってきて、カイジはつい、声をあげて笑い出してしまう。
 すると、アカギも振り向いて笑い、カイジの手を強く握りなおしたのだった。




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