甘いコーヒー 甘々



 ちょうど三本目のタバコを吸い終えたところで、コンビニから待ち人が出てきたので、アカギは備え付けの灰皿にタバコの先を押しつけた。

「おつかれさま。カイジさん」

 声をかけると、カイジは「おう」と答えてアカギに近づく。
 きつく吊った目許が、ほんのすこし和らいでいるのを見ながら、アカギは持っていた缶コーヒーをカイジに差し出した。
「おっ、くれんのか? サンキュー」
 カイジは白い息を吐き出して笑い、うれしそうに缶コーヒーを受け取る。
 すぐにプルタブを上げ、湯気の上がる熱い液体をうまそうに一口啜って、ホッと息をついた。


 星のない夜空の下、アパートに向かって肩を並べて歩く。
 ちびちびとコーヒーを飲み進めるカイジの横顔を、見るともなしにアカギが眺めていると、視線を感じたのか、カイジがアカギの顔を覗きこんだ。
「……飲む?」
『微糖』と書かれた茶色い缶を差し出され、アカギは首を横に振ろうとしたが、白い湯気からかすかに漂うコーヒーの香りと、寒さに頬をうす赤くしてじっと見つめてくるカイジの姿に珍しく食指を動かされ、差し出された缶を受け取った。

 だが飲み口に唇をつけ、一口すすったところでアカギは盛大に顔を顰める。
 口いっぱいに広がる甘さに辟易しつつ、押しつけるようにしてカイジに缶を返した。
「……甘い」
「当たり前だろっ……微糖なんだから」
 お前が買ったんだろうが、と呆れたように言って、ため息をつくついでみたいにカイジは笑う。
 控えめな笑い声を聞きながら、今晩は機嫌がいいな、とアカギは思う。
 人間離れして勘が鋭いくせに、ひさびさに会う恋人が上機嫌である、その理由について考えを及ぼそうとすらしない。
 そういう妙な鈍感さが、恋愛というものに興味も関わりも薄かったアカギらしいといえた。


「お前、ずっと東京にいたのかよ?」
「いや……あちこち、フラフラしてた」
「あちこち?」
「南の方とか」
「南?」
「九州とか、四国とか」
 淡々としたアカギの答えに、いいなぁ、オレも行きてぇ、南の方。とぼやいてカイジは天を仰いだ。
 この人に会うのは何ヶ月ぶりだったか。その横顔を見ながらアカギは考える。
 前に会ったのは秋の暮れだった。枯葉の舞う道で隣を歩いていたカイジの姿を思い出す。

 着るものがスカジャンから厚手のダウンコートに変わったことと、すこし髪が伸びたこと以外は、なんの変化もないように見える。
 実際、会わなかった期間は数ヶ月だ。
 たったの数ヶ月。だけど、カイジにとって数ヶ月は『たったの』ではないのだということを、長い付き合いでアカギは十分に認識していた。


「なぁ、カイジさん」
 アカギが呼ぶと、黒い双眸が見返してくる。
 明日、すこし遠出しようか。場所なんてどこだっていいけど、いつも行くようなパチンコ屋や近所の飯屋じゃなくて、もっと遠く。
 電車に乗って、誰もオレたちのことなんて知らないような街へ。

 一瞬、そんな考えが頭をよぎって、アカギは流れるようにうすい唇を開く。
 だが、アカギが言葉を口にする前に、カイジが空を見上げて「あ」と声をあげた。
「雪……」
 アカギが空を見上げると、こまかな白い花弁のようなものが、ちらちらと舞い落ちてきた。
「どうりで……やたら冷えると思った」
 ぽつりと呟いて、ひたすら上を見つめるカイジ。
 その目は東京の初雪を落とす空に釘付けになっていて、アカギがなにか言いかけていたことなど、すっかり忘れているようだった。

 いっそう冷え込む夜気にますます頬を赤くしながら、一心に空を仰ぐ横顔に、アカギは微かに目を細める。
 幻惑されたのかもな。さっき一瞬、頭をよぎった誘い文句を、反芻しながらアカギは思う。

 あんな、普段ならぜったいに言わないような甘い言葉を、あっさり口に上せそうになったのは、きっとひさびさにこの人に会ったせいだ。
 ーーなんのことはない。今夜、機嫌が良かったのは、この人だけじゃなかったってわけだ。
 いまだ口の中に残るコーヒーの甘さが、さっき言いかけた甘い言葉の残滓のように舌にまとわりついていて、アカギは苦笑する。


 髪や顔で雪のかけらを受けながら、カイジは相変わらず、夜空を熱心に見上げている。
 無邪気なその横顔に邪気をくすぐられ、アカギは無防備に開いたままの唇に口づけた。
 ごく軽く触れて離れると、カイジは一瞬、ぽかんとしたあと、赤い頬をさらに赤くして騒ぎ始めた。
「こんな場所で」だの「人目が」だの、アカギにとってはどうでもいいような文句を聞き流しながら、ひさびさに帰るアパートに向かって、また歩きだす。
 つめたい空気に溶けていくふたりの白い息からは、甘いコーヒーの匂いがした。




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