魔法があるとするならば
鍵と財布だけをポケットに入れて部屋を出ると、涼しい風が体をやわらかく包み込んだ。
晴れた空が高い。季節はすっかり秋だ。
ついこの間まで、暑さで膨張しきって輪郭がぼやけたようだった夏の空気が、ここ数日で、すっきりと明瞭な秋の空気にガラリと様変わりしている。
命がけの切実さを帯びた蝉の大合唱は絶え、鈴虫やコオロギの鳴き交わす声が賑やかだ。
息を吸い込んだそばから全身を満たしていく清々しさに、胸がきゅっと締めつけられる。
ふとしたときに、あの人の空気を感じることがある。
それはたいてい、あたりまえのようにそこに在る自然の造形の中に、あの人の持っていた色や、ぬくもりに似た温度を感じたときだ。
そういうときは、決まって心臓がおかしな跳ね方をして、一瞬、時が止まる。
なにげなく過ぎていく日々の中に、その感覚は突然、ひんやりとした手触りで滑り込んでくる。
鳥や獣がもつ瞳の気高さの中に。
くっきりとした夏の雲の白さに。
しんしんと降り積もる雪景色に。
澄み渡るような秋の風の匂いに。
そういうものの中に、あの人を成していた片鱗が溶け込んでいるような気がするのだ。
それが、たまにオレの魂を揺さぶる。
いたずらに、後ろから驚かせるようにして。
オレはつい笑い出しそうになる。
まるで生前のあの人そのものだ。低く喉を鳴らす声さえ、聴こえてきそうな気がする。
そこにいますね、と心の中で語りかけて、馬鹿馬鹿しくなって首を横に振る。
それでも、風に乗るようにして、心は容易く上向きになる。
魔法というものがあるとするならば、きっとこういうものなのだろう。
あの人は魔法みたいにオレの心を掴んで、揺さぶって、追い風に乗せてくれる。
いなくなってしまってからちょうど一年が経つ、今になってさえも。
オレは軽やかに足を踏み出す。
あの人の愛飲していた酒と、タバコを買いに行くために。
終
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