波音




 闇に沈む窓に、白い横顔がぼんやり浮かぶように映っている。
 まるで幽霊みたいだ。そんな不吉な連想をしながら、カイジは助手席の窓に反射する赤木の横顔を眺める。
 その存在を確かめるように、窓に映る白い輪郭を指でなぞり、ため息をつく。

「どうかしたか?」
 耳ざとい赤木が聞きつけて、すぐにため息の理由を尋ねてくる。
 窓ガラス越しに目が合って、カイジは静かに首を横に振った。

 ひっそりと暗い闇をライトで割きながら、車は滑るように走る。
 赤木の運転する車で、ふたりきりのドライブ。
 カイジにとって、それは心臓がいくつあっても足りないような誘いだった。本来ならば。

 しかし、手放しで喜ぶには、引っ掛かりが大きすぎた。
 赤木は前回の約束を、カイジに断りなく反故にしている。
 それについて、苛立ちや落胆を覚えなかったわけではない。実際、次に逢ったときには文句のひとつも言ってやろうと、カイジは息巻いていたのだ。

 それなのに、なんの連絡もなく突然、黒塗りの車がアパートの前に停車したと思ったら、運転席の窓を下げた赤木が『ドライブしようぜ』なんて宣ったものだから、カイジの頭に山ほど浮かんでいた文句の言葉は、きれいさっぱり雲散霧消してしまったのだった。

 それほど、赤木の行動はカイジにとって違和感があり、疑念を抱かされるものだった。
 赤木は、なにかを隠している。
 まるでカイジとのわだかまりを性急に取り除こうとするような、『らしくない』行動の中に、なにか重大なことがらが秘められている。
 それがなんなのか、カイジは目を眇めて見定めようとしたけれど、赤木は疑惑の目を飄々とすり抜けて、核心的なことはけっして悟らせようとはしなかった。

 海に着いて車を降りたあたりで、カイジはついに無言の詮索を諦めた。
 赤木が隠しておこうと決めたことは、どんなに躍起になろうと、けっして暴くことなどできないと悟ったのである。

 心の靄は晴れなかったけれど、カイジは肩の力を抜いて、ふたりきりの時間を愉しむことにした。

 割り切ってしまえば、赤木と過ごす半日は夢のようだった。
 なにぶん急だったので、行きたい場所なんてすぐには思いつかなくて、大半を閑散とした海を過ごすことになってしまったけれど、赤木とふたりきりでいられるというだけで、カイジの心は踊った。
 穏やかに波を巻く海を眺め、あたたかな砂の上をふたりで歩く。
 たったそれだけのことで、カイジは馬鹿みたいに満たされた。


「帰り道、忘れちまった」
 水平線に沈む夕陽を見ながら赤木がそう言ったとき、ふざけたことを、と呆れる一方で、ほとんど反射的に、カイジの胸は高鳴った。

 もし、本当にそうだったなら。
 赤木が本当に帰り道を忘れてしまったのだとしたら。
 あるいは帰りたくないと、本気で思っているのだとしたら。
 そんな馬鹿馬鹿しい仮定が、カイジの口から自然に言葉をこぼれさせた。

「……なら、べつに帰らなくたっていい」
 子どものように素直なその言葉は、カイジの掛け値なしの本音だった。
 赤木はなにも言わなかった。なんだか気恥ずかしくなってきて、カイジは煮えたぎる夕陽を溶かす海を見つめる。

 やさしく囁く波の音。沈みゆく黄金の陽。

 赤木がどんな表情をしているのか気になって、おずおずとカイジが視線を向けたそのとき、
「そろそろ行くか」
 そう言って赤木が立ち上がったので、カイジはひどくがっかりした。
 赤木はいつもと変わらない、凪いだ海のように穏やかな表情をしていて、カイジはまるで魔法が解けてしまったかのような気持ちで、急に色あせて見える景色を茫然と眺めたのだった。




「酔ったんなら、窓開けろよ」

 運転席からの声に、回想にふけっていたカイジは我にかえる。
 赤木の口からチキンランの昔話を聞いたことがあったから、今日のドライブに一抹の不安を抱いていたカイジだったが、予想を裏切って赤木の運転は快適だった。
 平気です、と答えながら、カイジは窓に映る白い横顔を見る。

 この人にとっては、きっと、なんてことのない一日だったのかもしれない。
 カイジはゆっくりと目を閉じる。
 それでも。
 それでも、オレにとっては、ずいぶん特別な一日だった。
 たとえそこにどんな真実が、隠されていたのだとしても。

 だから、ずっと覚えていよう。
 赤木さんがいつか忘れてしまったとしても、オレだけは、ちゃんと覚えていよう。

 思い出を静かに胸に仕舞い込みながら、運転中の赤木にそうできない代わりに、窓ガラスに映る白い虚像に、そっと額を押しつけた。



 馴染みのある細い路地を抜け、車はアパートの前で停車した。
 部屋の灯りがぽつぽつと灯っており、辺りはしんと静まり返っている。
「ありがとうございました」
 呟くように礼を言い、名残惜しい気持ちでカイジは車を降りる。
 ドアを閉めると、そのまま走り去るものと思っていた赤木が窓を下げたので、カイジは首を傾げた。

「どうかしましたか?」
 返事はなく、赤木はただ、カイジを静かに見つめている。

 やっぱり赤木さん、なんか変ですよ。

 そんな言葉なんて口に出せないくらい、哀しくなるほど赤木の瞳は澄んでいた。
 吸い込まれそうに静謐な表情だった。まるで夜の空気みたいに。

 息を潜めるようにしてカイジがその瞳を見返していると、赤木はゆるく口角を持ち上げた。

「じゃあな。おやすみ、カイジ」

 あたたかな低い声が子守唄のように心地よく、カイジの顔に素直な淡い笑みが浮かぶ。
 おやすみなさい、と返事を返すと、赤木はカイジを見つめたまま窓をあげた。

 無機質な電子音とともに、ふたりの世界が薄いガラスに隔てられた刹那、なぜか心が千切れそうなせつなさに襲われ、カイジは赤木の方へ手を伸ばしかける。
 だが、赤木はすでに眼前に広がる闇に向き直り、アクセルを踏み込んでいた。

 黒い車は、ゆっくりと走り出す。
 静かな道をタイヤが滑る音が、夕陽の沈む海の音と重なる。
 金色にゆらめく水面が、カイジの脳裏に蘇る。

 まぼろしの波音を耳の奥で聞きながら、カイジはそこに立ち尽くしたまま、自分のもとを去っていく黒い車を、いつまでも見送っていた。





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