笑ってほしいんだ カイジさんが酔っている話 痒い



 350mlの缶ビールを片手に、丸い月を背負って気分よさげに笑う男のシルエットを、アカギは見上げていた。


 アパートの近くで行われた夏祭りの帰り道。
 屋台でしこたま呑み食いし、したたか酔ったカイジは、近所の公園の前まで来ると、爛々と目を輝かせた。

 隣を歩くアカギになんの断りもなく、ふらふらとおぼつかない足取りで公園に入っていき、ビール片手にはしゃぎながらジャングルジムに駆け寄ると、するするとてっぺんまでのぼってしまったのである。
 間違っても大のおとなのやることではない。
 が、泥酔しているのだから仕方ないと、半ば諦めてアカギはカイジに付き合ってやった。


 夜の公園には人気がなく、アカギとカイジのふたりきりである。
「お前も来いよ」
 うきうきと弾んだ声での誘いをアカギは黙殺したが、カイジは気にした風もなくカラカラと笑った。

 なにがそんなに楽しいのかわからない。
 カイジが行きたいと言うからアカギもつき合ったが、屋台の数も賑わいも、至って平々凡々とした夏祭りだった。
 ただ、当の本人は大いに楽しんだらしい。
 よく笑い、よく喋り、祭り特有の浮ついた空気が尾を引いて、軽い躁状態になっているようだ。


 細い鉄の棒でちょっと支えられているだけの体が、ふらふらと不安定に傾いでいる。
 今にも足を踏み外しそうに思われたが、酔っ払いになにを忠告したって無駄だろう。
 夜風になびく長い髪が、動物のたてがみのようだ。放っておいたら月に遠吠えでも始めそうだと、喉をそらしてビールをあおる姿を仰ぎながらアカギは思う。


 すでに祭りは終盤であり、道を歩く人々の姿もまばらになっている。
 ふたりのいる公園にまで微かに届いていた笛と太鼓の音も、やがてはぴたりと止んだ。
 ずっと流れていた音がなくなると、空気の流れまでもが止まってしまったように感じられ、夏の夜の蒸し暑さが、急に重だるく体にまとわりついてくる。

 通りを歩く人々の声や、原付が走り去る音をしばらく聞き流しているうち、アカギはひとりで陽気に笑っていたカイジが、いつの間にか静かになっていることに気づいた。
 月の眩しさに目を眇めつつジャングルジムを見上げると、なんとカイジは肩を震わせ、滂沱の涙を零していたのだ。

 さすがのアカギも言葉を失う。
 酔っぱらったカイジの感情の豹変ぶりときたら、女心や秋の空の比ではない。
 なにをか言わんやという気分で見上げるアカギをよそに、カイジはさめざめと泣いている。
「……酔っぱらい」
「うるせぇっ……!!」
 間髪いれず噛みついてくる呂律も怪しい。
 流れる涙を拭いもせずに、カイジは据わりきった目でアカギをキッと睨めつけた。
「オレはなぁ……寂しいんだよっ……! 祭りが終わっちまうのがっ……」

 思いがけず素直な口ぶりに、アカギは眉をあげる。
『寂しい』なんて言葉がカイジの口から出るなんて、思ってもみなかったのだ。

 きっと祭りのあと特有の、感傷的な雰囲気に呑まれているだけなのだろう。
 ギネス級のもろさを誇るカイジの涙腺は、それに耐えられず決壊してしまったのだ。

 もはや答える気もなくしたアカギが黙ったままでいると、酔眼を涙で赤くさせながら、カイジはどこか哀切な声で吐き捨てる。
「寂しいんだよっ……お前がもうすぐ、出て行っちまうこととかっ……」
「……」
「お前がいつか、オレの前からいなくなっちまうこととかっ……そういうのがよぉ……」
 肺の空気をぜんぶ使い切ったみたいに肩で息をしながら、手の甲でがむしゃらに顔を擦るカイジ。
 アカギはため息をつき、天を仰いだ。

 酔いすぎだ。祭りが終わった物悲しさなんかに引きずられやがって。
 こんな面倒なこと、普段はぜったいに口に出さないくせに。厄介なことこの上ない。

 しかし本当に厄介なのは、この面倒な人を切り捨てられない自分自身だ。
 この人以外の面倒ごとは、すべて容赦なく切り捨てられるし、事実、今までだってそうしてきたというのに。

 その理由にうんざりするほど自覚があるから、アカギは自虐めいた笑みにひっそりと唇を歪める。
 ままならない自分の心に歯痒さを覚えていられる段階など、とうに越えている。もはや、笑う他ないのだ。

 低く喉を鳴らす音に反応して、カイジが、ぐず、と鼻をすする。
 涙と鼻水で見る影もない顔を見上げながら、アカギは片頬をつり上げた。
「そんなに寂しいなら、おりて来いよ。そんなところで、ひとりで泣いてないで」
 軽く腕を広げ、不敵に笑ってみせる。

 カイジほどではないが、アカギもすこしは酔っている。
 ジャングルジムの高さはおよそ三メートル。そのてっぺんから落ちてくる、自分と似たような体つきの男を、受け止めきれるかどうかは五分といったところだった。

 この酔っぱらいともども、地面に倒れ込んで怪我をするかもしれないが、どちらの結果に転んだにしろ、声をあげて笑うカイジの姿が容易に想像できたから、それだけでいいとアカギは思った。

 ぐちゃぐちゃに濡れた顔のなかで、泣き腫らした双眸が、まるで楽しい悪戯を耳打ちされた子どものようにきらりと光る。
 酔ったカイジの表情は、万華鏡みたいにくるくる変わる。
 単純なもんだと思いながら、カイジを泣き止ませたくてこんなことをしている自分も大概だと、アカギは苦々しく笑う。
 
 次の瞬間、ジャングルジムのてっぺんから、真っ黒なシルエットが宙に躍り、ためらいなくアカギの方へ飛びこんできた。
 




[*前へ][次へ#]

16/76ページ

[戻る]