八月 赤木さんがひどい


 

 軽い音をたてて、古ぼけた扉をノックする。
 しばらく待ってみたが、返事はない。赤木は首を傾げ、ドアノブを捻ってみた。
 果たしてなんの抵抗もなくドアは開いた。
 薄汚れたスニーカーの脱ぎ散らかされた玄関で、よく磨かれた革靴を脱ぎ、赤木は誰の許可もなく部屋に上がる。
 片手に提げた茶色の紙袋が、ガサガサと鳴る。


 真夏の昼だというのに、室内はジメジメと薄暗い。居間に続く引き戸を開けた途端、白っぽい光が赤木の目を刺した。

 目一杯に開け放たれた窓。八月の太陽と、蝉の声。
 眩さに目を眇め、赤木は部屋を見渡す。
 ベッドの上に、男がひとり。仰向けに寝転んで、物憂げに赤木の方へ視線を投げていた。

 様子がおかしい。
 赤木が訪ねたとき、この男が居留守を使うなんてこと、まず有り得ない。よしんばノック音が聞こえていなかったのだとしても、顔を見たら慌てて体を起こすとか、なんらかの反応は見せるはずだ。
 黒いTシャツの胸が、忙しなく上下しているのが見て取れた。

「よぉ」
 短い挨拶とともに、赤木は男に近づく。
 ベッドサイドに立って初めて、男が異様なほど発汗していることに気がつく。
 灰色の、やわらかい布地のハーフパンツが、大量の汗を吸って一段色を濃くしている。
 しどけなく投げ出された体のかたちに沿って、シーツに大きなシミができている。

「風邪か」
 赤木が尋ねても、返事は返ってこない。
 その代わり、乾いた咳をしばらく続けたあと、男は涙目で赤木を見上げた。
 その目つきの剣呑さに敢えて気づかないふりをして、赤木は片手に提げた紙袋を持ち上げてみせる。
「土産、持ってきたぜ」
 掌に収まる大きさの、橙色の丸い果実を取り出し、男の目の前に差し出す。
「蜜柑だよ。夏に珍しいだろ。なかなかうまかったから、お前にもーー」
「どうして、オレが部屋にいるって……」
 言下に低く問われ、赤木は蜜柑を手にしたまま、肩をすくめる。
「窓、開いてるの見えたからな」
 ちいさく舌打ちして、男は赤木から顔を背ける。
 虫の居所が悪いようだ。その原因が自分にあることに、赤木は薄々感づいていたが、素知らぬ顔で男の顔を覗き込み、クスリと笑った。
「弱ってる恋人ってのは、なかなか色っぽいな」
 いつもの、多愛ない軽口だった。
 しかし口にした瞬間、だらりと虚脱しているかに見えた男の全身から、激しい憤りが奔騰するのを赤木は見た。
 男はバネのように跳ね起き、野蛮な力で赤木の腕を掴み引き寄せる。
「おっと、」
 ベッドの上に蜜柑が落ち、ころころと転がる。
 その行方を目で追おうとするのを阻止するかのように、至近距離に男の顔が迫った。
「……」
 ひさびさのキスは、苦くて熱い味がした。
 いったい、いつ振りだったろうかと、曖昧な記憶を辿る赤木の口内を、憤怒に任せて男の舌が這い回る。
 荒々しいキスを無抵抗で受け入れながら、赤木はうっすらと目を開く。仕掛けてきたのは男の方なのに、目の前の顔はなぜかひどく苦しそうに歪んでいた。
 咳を飲み込んで、ときおり辛そうに噎せながらも、男は赤木の口内を貪るのをやめなかった。


 キッチンの方から、がらがらん、と氷の落ちる音がした。
 それを合図にしたように、男はようやく唇を離す。
「恋人だなんて……どの口が……」
 憎々しげな声。
 赤木はさして気にした風もなく、濡れた唇を見せつけるように舐めた。
「どの口って、たった今、お前がキスしたこの口だよ。忘れたのか?」
 臆面もなく答えると、男はぽつりと吐き捨てた。
「……うつっちまえ」
 呪いのような言葉を受け、赤木は不敵に片頬をつり上げる。
「若ぇ頃から、数えるほどしか体調崩したことねぇんだ。うつらねぇよ。この程度じゃな」
 確信に満ちた、悠揚な物言いで、赤木はわざと男の怒りを煽る。
 男は相変わらず調子が悪そうだが、額から流れる脂汗を拭いながらも、気丈に赤木を睨みつけてくる。
 低い獣の唸り声が聞こえてきそうだ。赤木は目を細め、男に向かって囁いた。

「こんな生ぬるい方法じゃなくて、本気で俺にうつしてみろよ」

 鈍い音をたてて紙袋がフローリングの床に落ち、橙色の塊がいくつも転がった。
 うっすらと湿った、ほんのり汗の匂いのするシーツに押し倒され、赤木は自分の腰に乗り上げた男を見上げる。
「熱上がってきたんじゃねえのか。顔、赤いぜ。無理すんなよ」
「……クソ暑ぃだけだ」
 汗に濡れそぼったTシャツをわずらわしげに脱ぎ捨てながら、病人であることを忘れさせるような強い眼差しに貫かれ、赤木は思わず、声をあげて笑った。




 ベッドの上に一個だけ転がっていた蜜柑を手に取り、半分に割ってから皮を剥く。
 夏に似つかわしいすっきりとした香りが、鼻先を擽る。
 ちいさな一房を毟り取り、口の中に放り込む。
 噛むたびに甘酸っぱい果汁を溢れさせる実をゆっくりと咀嚼しながら、赤木は隣で死んだように眠る男を見下ろした。
「痛ましいな」
 呟いた言葉がまるで他人事のように冷たく響き、赤木はひとり苦笑する。

 紙のように青白い顔で、ほとんど気絶するようにして男は眠りについた。
 明らかに体調が悪化している。風邪で体が辛いのに、あんなことをするからだ。
 そう仕向けたのは、他でもない自分なのだが。

 他の連中とは違い、男は赤木に媚びない。遜らない。
 赤木と肩を並べることに気後れしつつも、シンプルにありのままの感情を、怒りを、赤木にぶつけてくる。
 それが面白くて、赤木はわざと、男を苦しめるような行動をとってしまう。
 恋人なのに。いや、恋人だからこそ、その美点を余すところなく味わいたいのだ。

 今日だって、幾度も約束を反故にして、男をさんざ放置した末の訪問だった。
 赤木の狙いどおり、情に強い男は怒りを露わにし、後先も考えずに噛みついてきた。
 男の激昂と、それに続く激しい行為のことを反芻し、酷薄そうな薄い唇がゆるやかな弧を描く。

 恋人同士の甘さなど、かけらもない性交だった。
 呆れるほどお人好しのこの男が、風邪がうつって赤木が苦しむことを、この瞬間だけは本気で願っているようだった。
 そのためだけに、男は赤木の上で息を乱しながら、荒々しく跳ねた。
 失神するのではないかと思われるほど体を痙攣させて絶頂する瞬間さえ、心だけは快楽と感傷に負けまいと、目に涙をいっぱいに湛えたまま、強く歯を食いしばって耐えていた。

 すさまじい苦痛と法悦に飲まれた瞳の奥に、最後まで美しいほどの怒りをたたえていたナイフのような三白眼は、今は力なく閉じた瞼の下に隠されている。
「なぁ。厄介な男に捕まっちまったなぁ、カイジ」
 やはり他人事のような口ぶりで、眠ったままの男に赤木は話しかける。
 ーーだからといって、離してやる気など更々ないのだが。

 赤木は心の底から満足そうに笑って、男の傷んだ髪に触れる。
 限りなく甘いその手つきは、言葉を必要としない睦言のようで、その仕草に嘘がないのが、赤木しげるという男の厄介なところであった。

 気だるい空気のなか匂いたつ、場違いなほど爽やかな柑橘の香り。
 甘酸っぱい実をひとつ、またひとつと噛み潰しながら、蝉の声しか聞こえない部屋で、赤木は恋人が目覚めるのを待つのだった。






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