ガラス片 カイジさんが怒る話



 粉々に砕けて床に散乱したガラス片が、きらきらと光を反射していた。

 まるで星のかけらのようだ。項垂れるようにしてそれを拾うカイジの顔は、落ちかかる長い髪に隠れてしまって見えない。

 泣いているのかと思って、アカギはカイジに近づこうとする。
 素足を一歩踏み出したところで、低い声がそれを制止した。

「……こっち来んな。頭イカれてんのか、ボケ」
 ずいぶんと棘のある言い方だ。アカギは気にせず、ゆっくりと歩を進める。
「来るなっつってんだろっ……!!」
 激しい声が投げつけられる。危ないから、という理由だけでは説明がつかないほど、厳しい峻拒の声だった。

 それでも足を止めないアカギの、足裏にチクリと痛みが走る。
 体重をかけると、鋭い破片はますます深く肉に食い込んでいく。
 裸足で荊を踏みしだいているようだ。それでも、アカギは平然としていた。

 無数のガラス片に足裏を傷つけられながら、アカギはカイジの側に立つ。
 俯いて黙々と透明なかけらを拾うカイジの手首を捕らえると、
「……離せ」
 ふつふつと煮え滾る怒りを押し殺した、軋るような声がアカギの鼓膜を引っ掻いた。
「顔、見せてくれたらね」
 アカギがそう言った瞬間、カイジはものすごい力でアカギを振り解き、拳を強く握り締めて腕を振り上げた。

 すぐさま、その拳が自分に向かって振り下ろされるものとアカギは思っていたが、予想に反し、カイジは数秒の間、瞋恚に燃える瞳でアカギを舐めつけていた。
 乱れた黒髪の隙間から覗く、きつく見開かれた三白眼。
 きれいだな、と思いながらアカギが見返していると、ギリギリと音をたてて歯軋りをしながら、カイジがゆっくりと拳を下ろした。

 硬く握りしめたままの拳の中から、ぽつぽつと血が滴っているのをアカギは見咎める。
 拾い集めていたガラス片が、握り込まれているのだ。瞬発的に沸騰した怒りが、拳を握る前にそれを捨て去る判断力をも吹き飛ばしたのだろう。

 きっと掌はズタズタに傷ついている。だが、カイジはますます強くその手を握り締め、大きく息を吸った。
「お前、は……」
 怒りに震え、掠れきった声。大きく喉を上下させてから、カイジは続きを口にする。
「どんなひどいこと言っても、オレがお前から離れられないって、タカ括ってんだろ……」
 そう言って深くうつむくカイジに、アカギはやや眉をあげた。
「……そんなこと、」
 ない、とアカギが言い返すより早く、カイジが激しい口調で捲し立てた。
「その通りだよっ、クソがっ……! しょうがねえだろっ、惚れちまってるんだから……ッ!!」
 血を吐くように、呪うように。
 ひどく苦しげな独白。
「どうして……お前みたいなやつに……ッ」
 強く握り締めていたカイジの掌が開き、真っ赤に染まったガラス片が、かしゃん、と密やかな音をたてて床に落ちる。
 血まみれの掌もそのままに、両手で顔を覆うカイジの姿を、アカギは黙って見つめていた。


 
『あんたには関係ない』

 この一言が引き金だった。
 なにげなく、次に控えている大金の賭かった代打ちの話をしたとき、心配してしつこくあれこれ尋ねてこられるのが鬱陶しくて、木で鼻を括ったような態度で、アカギはカイジをそう突き放したのだ。
 それがカイジの逆鱗に触れた。
 激情に流されるまま、カイジは机の上にあったコップを掴み取り、床に叩きつけたのだ。
 コップは儚い音をたて、無惨に砕け散った。
 しばらく、カイジは俯いたまま肩で息をしていたが、やがて無言のまま、自分が割ったコップのかけらを拾い始めたのだった。


 いつものくだらない諍いに過ぎないと、アカギは思っていた。
 だけど、自分の言葉がコップではないなにかを粉々に砕いてしまったことを、アカギはカイジの言葉でようやく知ったのだ。

 アカギは目線を下げ、きらきらと光るガラス片を見つめる。
 怒りに任せ、コップをアカギに投げつけることだってできたはずだ。
 事実、コップを引っ掴んだ瞬間、カイジはアカギに向かって腕を振りかぶっていたのだ。

 それでも、カイジは衝動を飲み込んで、その腕を振り下ろした。
 我を忘れるほどの激しい怒りに飲み込まれたときですら、カイジはアカギを傷つける選択をしなかったのだ。

 アカギは奇妙なかたちで、カイジの愛情を見た気がした。
 どんなふうに想われているか、思い知らされた気がした。
『あんたには関係ない』
 この言葉が、握り込んだガラス片など比ではないくらい、鋭く深くカイジを傷つけたのだということも。


 やがて、カイジは顔を覆っていた手をゆっくりと下ろした。
 掌から流れる血のせいで、血まみれになった顔。
 やるせない色の滲む目許を手の甲でぐいと拭い、カイジはふたたび屈んでガラス片を拾い始める。

 バラバラに砕け散った心を拾い集めているかのように見えて、アカギは血に塗れたカイジの手を取った。
 カイジは頑なにアカギの方を見ようとしない。その代わり、『離せ』とも言わなかった。
 アカギはそっとカイジの掌を開かせる。案の定、やわらかい肉は見るも無残に引き裂かれていた。
 痛々しい傷を労わるように、アカギはそっと唇を寄せる。
「……悪かったよ」
 自然に、その言葉が口から零れでた。

 カイジは返事をしなかったけれど、代わりに、ぐす、と鼻を啜る音がした。




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