一緒に・2
「……カイジさん」
名前を呼ばれ、カイジはハッと我に返った。
バイト帰り、コンビニの駐車場。いつものようにカイジを待っていた少年が、下から覗き込んでくる。
「悪ぃ……ボーッとしてた」
カイジは苦笑し、頭を掻く。
少年は細い眉根を寄せたが、結局なにも言わなかった。
そのことにホッとしつつ、カイジは「行こうぜ」と言って歩きだした。
六月の下旬、蒸し暑い夜。
昼間よく晴れていたせいで、頭上には降るような星空が広がっている。
夏の大三角も、東の空でくっきりとした輝きを放っていた。
歩いているだけで額に滲む汗を手の甲で拭いながら、カイジはぼやく。
「もうすぐ、夏だなぁ……」
カイジが少年と出会ってから、もう四度目の夏が来ようとしている。
……こいつと初めて出会ったのも、三年前のこの季節のことだったよな。
涼しげな顔で隣を歩く少年にカイジが視線を向けると、滅多なことでは動かないはずのポーカーフェイスが、ほんのすこし翳っていた。
きっと、年に一度の夏祭りのことを思い出して、面倒くさいなどと考えているのだろう。
長い時間をともに過ごすうち、ほんの些細な少年の機微も、カイジには感じ取れるようになっていた。
「今年の祭りも、晴れるといいな。お前とあの夜景を見ないことには、夏本番って感じ、しねぇし」
カイジがそう言うと、少年は鋭い目をわずかに丸くした。
そのまま、細い顎を引き、こくりと頷く少年。
今は隠されている白い耳は、きっとピンと立っているのだろうと容易に想像できて、カイジは頬を緩ませた。
「そうだ……なぁ、これやろうぜ」
ふたりの暮らすアパートが近づいてきた頃、カイジは思い出したようにそう言って、片手に提げたコンビニの袋を探る。
ほら、と少年の目の前に差し出したのは、カラフルな薄っぺらいパッケージ。
「なに、これ」
「花火だよ。お前、やったことねぇだろ」
少年はカイジの手許をじっと見て、不審げな顔をする。
「こんなちっぽけなもんが、どうやってあんなデカい火の玉に化けるんだ」
違う違う、とカイジは笑う。
どうやら、少年にとって花火とは、あの夏祭りの夜の、打ち上げ花火のイメージ以外ないらしい。
まだまだ人間の世界のことには疎い子どもの神さまが、笑われてムッとした顔になるのを見て、カイジは取り繕うように言った。
「何事も経験だろ。お前と毎年見てる花火には遠く及ばないかもしれねぇけど、これはこれで、けっこう面白いと思うぜ」
この日のために100円均一で購入しておいたバケツに水を張り、アパートの裏の空き地で、カイジは花火の袋を開けた。
「ほら」
派手な金色の花火を一本抜き取って、少年に差し出す。
少年は白い狐耳をピクリと動かし、素直に手を出して受け取った。
「じっとしてろよ。火、点けるからな」
少年の持つ花火の先に、カイジはライターを近づける。
言いつけを守り、動かずに自分の手許を注視する視線を感じつつ、カイジが花火の先を炙ると、ややあって、輝く火が勢いよく噴き出した。
音に反応して、少年の白い耳がせわしなく動く。
まるでホースから水が放たれるように、放物線を描きながらきらきらと輝き落ちていく光。
切れ長の瞳が、星のような輝きに釘付けになっているのを見て、カイジはちょっとくすぐったいような気持ちになった。
ものの十数秒で、少年の花火は消えた。
さっきまでは気にならなかった静けさや、街灯もない闇の深さが、急に実体をもって迫ってくる。
「……ガキくせぇ遊び」
少年はぽつりと呟いて、バケツの中に花火を放った。
「ガキ臭くて悪かったな。お前にはピッタリだろ」
口をへの字に曲げて言い返しながら、カイジは自分の分の花火を選ぶ。
だが、カイジの選び取った派手な青い花火は、隣から伸びてきた白い手に、素早く引ったくられた。
「あっ!」
ついでにライターまで奪われ、呆気にとられるカイジの目の前で、少年が花火の先に火を近づける。
たちまち煌びやかに噴き出した青い炎を手に、少年がゆらりと近づいてくるので、カイジは「ひっ」と叫んで後ずさった。
「誰が、ガキくせぇって……?」
「おっおい! それ人に向けんなっ……!! あっつッ……! マジ洒落になんねぇからっ……!!」
額に青筋を立てた少年に、花火片手に追い立てられ、カイジはひいひい言いながら空き地を逃げ回るのだった。
火のついた花火でお互いを攻撃し合うという、不良高校生のようなことに本気を出しているうちに、ふたりは花火をどんどん消費してゆき、気がつけば辺りにはもうもうと火薬くさい煙が充満していた。
逃げ回って息を切らしたカイジが、咳き込みながら花火の袋を探ると、その中はすでにほとんど空っぽになっていた。
まだ火の点いている花火を手にじりじりと迫り来る少年に、カイジは冷や汗を垂らしながら、最後に残った花火を突き出す。
「まっ待てっ……!! 最後にコレやろうぜコレっ……!!」
カイジの手に握られているのは、束になった線香花火。
圧倒的に地味なその見た目に、少年が目を眇めるのとほぼ同時に、勢いよく火を吹いていた花火が、萎むように消えていった。
ふたり向かい合うようにして草むらにしゃがみ込み、虫の声に取り囲まれながら、線香花火に火を点ける。
「花火のシメといったら、これだよな」
闇の中、囁くような音で散るちいさな火花を、少年はじっと見つめている。
切れ長のきれいな瞳に火花が映り込み、まるでささやかな光が灯ったような光景に、カイジは花火そっちのけで、ぼんやりと見入ってしまう。
仄かな光に照らし出される、端正な顔立ち。
静かな息遣いさえ感じられる距離に、カイジの胸が波打った。
いつまで、こんな風に過ごしていられるのだろう。
この狐耳の少年とふたり、他愛もない日々を重ねられるのだろう。
そのことを考えると、ふっと胸が締めつけられる。
いつもなら、こんなに感傷的になったりはしないのに。
こんなにも思い詰めてしまうのは、きっと夢のせいだとカイジは思う。
近ごろ、毎晩のように見る夢。
美しい大地にひとり立ち、この世ならざるものの声に問いかけられる。
ーーお前はあの者に、何を望む
答えは決まっているはずなのに、いざ口に出そうとすると、喉につかえてどうしても出てこない。
少年が、好きな人と未来永劫、一緒にいられること。
それこそが自分の望みだと、ずっと思ってきた。
少年への恋心を自覚してからも、それこそが少年の幸せなのだと、幾度も幾度も自分に言い聞かせてきた。
それなのに。
どうしてもその答えを、口にできない自分がいる。
嘘や誤魔化しなど通用しない、あの荘厳な声の前で、心の奥深くにしまい込んだはずの願望に、カイジは嫌というほど気付かされた。
このまま、ずっと一緒に、いられたらいい。
「ずっと……」
無意識のうちにぽつりと口に出してしまって、カイジはハッと我に返る。
シュッというちいさな音とともに、カイジの線香花火が落ちた。
「あ? あ〜……消えちまった……」
物思いに沈んでいたことを誤魔化すように、大袈裟に肩を落としてみせるカイジ。
だが、少年の瞳はまだ燃えている自身の花火ではなく、カイジの顔をじっと見つめていた。
「……どうして、泣いてるの」
わずかに見開かれた、切れ長の目。
えっ、と呟いて、カイジが確かめるように自分の頬を触ると、濡れた感触が指先に伝わった。
「あれ……、変だなオレ、どうしーー」
慌てるカイジを余所に、熱い涙は次から次へと溢れてくる。
地面にぽたぽたと落ちる雫。線香花火が自分の涙のせいで消えたのだということに、カイジはこのとき、初めて気づいた。
あの夢を繰り返し見るようになってから、カイジはある懸念を抱いた。
少年と離れることになる日が、近づいているのではないか、と。
じわじわと心を侵食されるような、あの不吉さ。
あれがただの夢だとは、どうしても思えない。
尋常ならざる力を持つ存在が、夢という形で、その日が近いことを知らせようとしているように、カイジには思えてならなかった。
だからこそ、いちど堰を切った涙は、なかなか止まらない。
少年は表情を変えずにカイジの様子を見守っているが、白い耳としっぽが下がっている。
要らぬ心配をかけてしまうと、手の甲でがむしゃらに顔を拭いながら、カイジは努めて明るい声を出した。
「わ、悪ぃっ! 煙が、目に沁みちまったみたいだ……」
バレバレの嘘に、あからさまに不機嫌な顔になる少年を、振り切るようにしてカイジは勢いよく立ち上がった。
「なんか眠くなっちまったな……、そろそろ戻ろうぜっ……!」
止まらない涙を少年に見られないよう、カイジは大きく伸びをしながら顔を背ける。
少年はなにか言いかけたが、その拍子に手許の赤い火の玉が、ぽとり、と地面に落ちた。
事切れるように輝きを失った黒い塊を、鋭い双眸が睨むようにじっと見据えていたことを、カイジは知る由もなかった。
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