なべとふた ただの日常話


「あ」

 カイジはちいさく声をあげた。
 手許にある、生成色のシンプルな土鍋。
 目を眇めて凝視すると、丸く厚みのある蓋の端が、わずかに欠けているのだった。

 ひとり暮らしを始めたばかりの頃、実家から送られてきた荷物の中に紛れ込んでいた、この土鍋。
 シンク下に封印されたまま忘れ去られていたそれが、ようやく日の目を見るときが来たというのに、使う前からこんな瑕疵を発見してしまった。

 カイジはシンク下のスペースに、不要になった物をなんでもかんでもポイポイ投げ込んでいる。
 そういう雑多な物たちの下敷きになるようにして長いあいだ埋れていたのだから、そりゃ土鍋も欠けようというものだ。

 出鼻をくじかれる形となったカイジは、すこしげんなりする。
 まぁ、今日のところは蓋を使わないからいい。問題は本体だ。
 欠けた蓋をそっと持ち上げて、丸い鍋の中を注意深く覗き込む。
 すると、案の定、鍋の底をちょうど半分に分けるようにして、鉛筆で引いた線のようなヒビが走っているのが見て取れた。

 眉を寄せ、カイジは盛大にため息をつく。
 まぁ……、これくらいのヒビなら許容範囲だ。使用には差し支えないだろうと、大雑把に判断してシンクの中に土鍋を置いた。

 蛇口をひねると、水が勢いよく迸る。
 土鍋を軽く濯ぎ、中に水を溜め始めたちょうどそのとき、玄関からノックの音が聞こえてきた。

 たっぷり間を開けて三回。特徴的なノックの仕方にカイジは軽く目を瞠る。
 濡れた手を服の裾で拭いつつ玄関に走り、勢いよくドアを開けると、そこに立っていたのはアカギだった。
「こんにちは、カイジさん」
 白い昼の光の中に立つ、白い男。
 眩しさにチカチカする目を細めながら、カイジはぼそりと返事をする。
「ーーおう」
 男が訪ねてくるのは三ヶ月ぶりだ。急な来訪には慣れきっているものの、こうして陽の高いうちにやって来るのは珍しい。
 完全に面食らい、ぼさぼさの頭を掻きながらも、カイジはいつもの癖で、アカギの全身に素早く目を走らせる。
 青い半袖シャツと藍色のジーンズ、いつものボストンバッグ。
 服の上から見る限りは、その体のどこにも新しい傷や痣はなく、カイジは無意識にホッと息をついた。
「ひさしぶりだな。あがれよ」
「うん」
 男は素直に頷いて、土間に足を踏み入れた。


 真夏の太陽が南中する時刻。
 ロクな冷房器具のない居間は、灼熱地獄と化していた。
 開け放った窓から、競うように鳴くセミの声が聞こえてくる。
「珍しいじゃねぇか、こんな時間に」
 率直に驚きを口にするカイジに、アカギはボストンバッグを床に置きながら、
「たまたま、近くに寄ったから」
 淡々と答える。
 ふうん、と気のない返事を返しつつ、カイジはそわそわと落ち着かない気分になる。
 不意打ちのような男の訪れ。驚いたのと嬉しいのとで、変な風に頬が緩みそうになるのを、眉間に皺を寄せて耐える。
「どうしたの、険しい顔して」
「べつに……、お前、飯食ったか?」
『険しい顔』のまま問いかけると、アカギは首を横に振った。
「今からそうめん茹でるけど、食う?」
「食う」
「じゃあ、ちょっと待ってろ」
 そう言い置いて、カイジはこれ以上顔を見られまいと、そそくさと台所へ逃げ込んだのだった。


 土鍋には、ちょうど八分目くらいまで水が溜まっていた。
 蛇口を閉め、土鍋をコンロに移動させる。

 ツマミを捻って強火にかけると、コンロの周辺だけ、ぐっと気温があがった。
 首筋を流れる汗を拭いながら、ぼさっと湯が沸くのを待っていると、
「なんか手伝う?」
 すぐ真後ろから声がして、カイジは飛びあがった。

 反射的に振り向くと、アカギがそこに立っていた。
 さすがに暑かったのか、黒いインナーシャツ姿になっている。

「あぁっ……!? び、びっくりした……」
 思わず大きな声をあげてしまうカイジを、アカギは表情を変えずにじっと見つめている。
 だが、明らかにおちょくられていることを雰囲気から感じ取って、カイジはこれ以上ない渋面になった。
「べつに……手伝いなんざ要らねぇよ。そうめん茹でるだけなんだから」
「なに、カリカリしてるの」
「してねぇし……!!」
 声を荒げるカイジをスルーして、アカギはコンロの上に視線を向ける。
「……土鍋?」
「あぁ……昨日、カレー作ったから」
 ぶすっと唇を尖らせながらも、カイジは答えてやる。

 いつも使っているアルミの片手鍋は、昨晩の残りのカレーごと、冷蔵庫で眠っている。
 それを温めなおして食べるという選択肢もあったのだが、あまりの暑さと米を炊くのが億劫なのとで、カイジの心は冷たくて手軽に食べられるものに傾いていた。
 だから、土鍋なんぞでそうめんを茹でているのである。

 ……という経緯を長々と説明しなくても、察しのいいアカギは「なるほどね」と頷く。
 こいつの頭の回転の早さはこういうとき役に立つな、などとカイジが思っている間に、土鍋の中がぐらぐらと茹ってきた。
 スーパーの特売で買ってきた安物のそうめんの封を切り、沸騰した湯の中に、一袋分まるごとぶち込む。
 闖入者に驚いたみたいに、鍋の中がしんとなったあと、おっかなびっくりといった風に、ふつふつと湯が踊り始める。
 あっという間にふにゃふにゃになり、鍋の中でもみくちゃにされていくそうめんを眺めながら、カイジはふと、思いついたことを口にしてみる。
「なぁ。そうめんにカレーって、合うと思うか?」
「さぁ……どうだろう」
「お前、食ってみる?」
「遠慮しとくよ」
 そんなくだらないやりとりをしている内にそうめんは茹で上がり、ふたりはすこし早めの昼食にありつくこととなったのであった。


 蕎麦猪口なんてものはないし、べつの容器を準備するのも面倒なので、カイジは水で締めたそうめんを土鍋に戻し、よく冷えたつゆをドボドボと注いで、卓袱台の真ん中にデンと置く。
 ふたりぶんの箸と取り皿、それにチューブ入りのわさびと生姜を卓に添えれば、具なしぶっかけそうめんランチの完成だ。

「いただきます」
 ふたり同時に呟いて、ふたり同時に箸を伸ばす。
 ぶっかけたつゆはかなり薄まっていたが、ひんやり、つるりとした喉ごしのそうめんは、蒸し暑い夏の昼下がりに、この上ないご馳走だった。

 素っ気ない味のそうめんにチューブの薬味をたっぷりと乗せ、暫し、両者無言でがっつく。
 黙々と麺をすする音と、セミの大合唱だけが、静かな部屋に響いている。



 大量に茹でたそうめんの半分を食い尽くしたころ、カイジが生姜チューブに手を伸ばすと、偶然、アカギも同じものを取ろうとしていて、指先が触れた。

 なんとなく、卓袱台越しに見つめあう。
 浮ついたような、きまりが悪いような、から回る妙な空気。

 ふたりの間には、ヒビの入った土鍋。
 わずかに欠けた蓋のことを、カイジはなぜか思い出す。

 白い指と触れている、カイジの左手指。
 その付け根には、ぐるりと囲むような傷。
 汗の伝う頬と、鬱陶しい髪に埋もれている耳にも、決して消えない傷跡がある。
 そして、黒いインナーシャツから見え隠れするアカギの肩にも、深い刀傷がついている。

 不穏な傷をもつ者どうし。
 なぜかお互い、しっくり馴染む。
 頭をよぎったくだらない連想に、カイジはふっと笑う。

「破れ鍋に綴じ蓋、か」
「ん?」
「なんでもねぇよ」

 呟いて、ひとりで苦笑するカイジを、アカギは瞬きしながらじっと見つめていたが、触れあったままだった白い指先を、ふいにカイジの指に絡ませてきた。

「この場合、どっちが鍋で、どっちが蓋?」
「へ? いや……、べつに、そこ問題にしてねぇから」
「いつもオレがあんたに重なるから、オレが蓋で、あんたが鍋か」
「そういうこと言ってんじゃねぇんだよっ……!!」

 くつくつと肩を揺らすアカギに、カイジは口をへの字に曲げる。
 余計なこと言うんじゃなかったとうんざりしながら、急激に熱を持ちはじめた指で、カイジは生姜チューブを引ったくったのだった。





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