花盗人 カイジさんが乙女


 おねーさんこっちビール追加あっこれ美味しい今まで大変お世話になり明日も仕事なんでお手柔らかにあはははそりゃないでしょホント最近の若い子ってさぁヤバいもう吐きそうちょっとセクハラですよそれおい水持ってこい水ーー
 
 あちこちから聞こえる雑多な会話の切れ端を勝手に拾い上げ、一本の長いリボンのように繋ぎ合わせていく耳を塞ぐ代わりに、カイジは俯いて深く深くため息をついた。

 午後七時。この時期の居酒屋は、どこも歓送迎会の団体客で大盛況だ。カイジの勤め先のコンビニも例に漏れず、新しく入ってきた数名のアルバイトの歓迎会をやっているのだが、元々バイト先の雰囲気に馴染めず、一人のほうが心地いいと感じてしまうたちであるカイジにとって、この飲み会は地獄だった。
 店内に溢れかえるノイズにひたすら耐えながら、黙々と飲んで食うだけ。最初は気を遣ってカイジに話しかけていた隣の席の新人も、話が弾まないとわかると気まずそうに体の向きを変え、逆サイドの会話の輪に混ざっていった。

 ガヤガヤと愉しそうに騒ぐ赤の他人に囲まれながら、孤独に酒を呑むという、苦行のような飲み会。好物の焼き鳥もビールも、この状況では砂を噛むようだ。
 こうなるとわかっていたから参加を断ったのに、団体割引のために強制的に参加させられた。諸悪の根源を睨めつけるも、赤ら顔の店長は新人の女子大生との会話に忙しいらしく、末席に座るカイジの存在など当然見向きもしない。バイトメンバーの中で唯一、いつもカイジにちょっかいをかけてくる佐原も、なにやら大袈裟な身振り手振りで対面の西尾と話すのに夢中だ。

 手酌で注いだ泡だらけのビールをぐっと干し、すぐさま瓶を傾けようとする。
 が、持ち上げた瓶は既に軽く、手の届く範囲に中身の入っている瓶も見当たらない。注文のため久方ぶりに声を発するのも、テーブルのあちこちに点在する王冠つきの瓶を取るために立ち上がるのもひどく億劫で、カイジは今夜何度目かのトイレへ行くふりでそっと席を立った。


 自動ドアを潜ると、体にまとわりついた澱んだ空気を、ひんやりとした春の夜気がやさしく拭い去っていく。
 風に乗って甘い匂いがする。街路樹の桜並木が満開なのだ。煙草を取り出しながらふらふらと近づき、花を眺めながら一服する。
 やわらかな月あかりのもと、止むことなく降りしきる花びらのシャワーを浴びながら、憂鬱な飲み会のことを束の間忘れる。
 こんなにじっくりと桜を見たことなんて、今までなかったような気がする。遠くから眺める分には壮麗だが、近くで見ると小さな花々の集合体がなかなかグロテスクだ。空気の冷たさも相まって微かに鳥肌がたち、桜から視線を外して夜の街を眺める。
 通りの向こう側にあるパチンコ屋が、ひっきりなしに人を飲み込んだり吐き出したりしている。自動ドアが開くたび、漏れ出てくる騒々しいBGMが『おいでおいで』と街行く人々を手招きしている。
 自分もその誘いに乗って飛び込んでしまいたい、という欲望に駆られ、指に挟んだままの煙草の存在も忘れてピカピカ光る看板に熱い視線を注いでいると、ふいにポンと肩を叩かれた。

「よぉ、カイジ」
 よく通る低い声、冬の名残を留める夜気のようにシニカルな笑み。
 突然目の前に現れた白いスーツの男ーー赤木しげるに、カイジは目を見開いたまま、声を出すこともできないでいた。
「クク……どうした、鬼にでも出会したような顔して」
「……っ、なん、どうし……」
 思いも寄らない邂逅に上手く言葉を紡げないカイジの疑問を掬い取り、赤木は口を開く。
「桜を眺めてたら偶然、お前の姿を見つけてよ。車帰させて、声かけに来たんだよ」
 ニッと口端をつり上げる子どものような表情に、カイジの心臓が跳ねる。
 おそらく代打ち帰りなのだろう。送迎の車を降りてまで自分に声をかけてくれたことが嬉しくて、カイジは緩みそうになる顔をさりげなく逸らしつつ、短くなった煙草を携帯灰皿に押しつけた。

「久しぶりだな」
「はい……」
「ちょっと痩せたんじゃねえか? ちゃんと食ってるか」
「やめてくださいよ。ガキじゃねえんだから……」
 朗らかに声を上げて笑う赤木に、つられてカイジも小さく笑みを漏らす。

 数ヶ月ぶりに見る赤木は、相も変わらず清々しいほど男前だった。
 身の裡から溢れ出る浮世離れした才気と、不吉なくらい隙なくシャープに整った容姿。
 ひらひらと舞い落ちる花びらの中、白いスーツに身を包んだその姿はまるで桜の化身のようにも見え、カイジは魂を奪われたかのように見惚れてしまう。

 物静かなのに闊達で、他を寄せつけないマチュアな魅力は、一回りも若いはずの店長なんかとは比ぶべきもないと感嘆したところで、憂鬱な飲み会の存在を思い出し、カイジは顔を曇らせた。
 露骨に沈んだ雰囲気を漂わせ始めたカイジに、赤木は目を瞬いたが、カイジの背後にある居酒屋を見てなんとなく事情を察したのか、ふっと微笑した。
「……なぁ、カイジ。これから、俺と呑まねぇか」
 悪戯を囁くような声。反射的にぱっと顔を輝かせたあと、カイジは戸惑うように視線を彷徨わせた。
「でも……オレ、飲み会の途中だし。抜け出すわけには……」
「なんだ、知らねぇのか? カイジ」
 笑みを含んだ不敵な声になにか反応する隙もなく、気がつけば、カイジは唇を掠め取られていた。
 たった一瞬の出来事。あまりにもさっぱりとした口づけにポカンとするカイジの手を取り、赤木はニヤリと笑う。
「花盗人は罪にあらず、ってな。お前は大人しく、俺に盗まれとけ」
 やや強引に手を引かれて夜の街を歩きながら、赤木の言葉の意味にやっと理解の及んだカイジは、桜よりもよほど鮮やかにその頬を染めあげて、ぎこちなく赤木の手を握り返したのだった。





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