シトラス


 やや人工的な柑橘の、爽やかで、甘苦い香り。

「おい。こんなとこで寝てないで、ちゃんとベッド使え」

 眠りの浅瀬に揺蕩っている意識は、声よりも先に匂いを知覚した。
 清潔な香りの心地よさに、しげるは半分眠ったような状態のまま、本能的に香りの発生源へと手を伸ばす。

 指先にやわらかい温もりが触れ、うっすら目を開けると、掴んだのは自分のそれより一回り大きな手。
 ぼんやりとしたまま引き寄せて、鼻先を擦り付ける。
 新鮮な果実を模した匂いがいっそう濃くなって、しげるは小さく吐息を零すように呟いた。

「なに、この匂い」
「匂い? ……ああ、洗い物してたから」

 洗剤の匂いだろ、と返す声はやや驚いたように上擦っている。
 軽く頬に触れる指先は、水仕事を終えたばかりで冷たく、それがきりきりとした柑橘の香りの青々しさをより際立たせている。
 幼い頃から天涯孤独の身だったしげるは、洗い物をしたことも、洗い物をした後の大人の手に触れたこともなかったから、無骨な手から香る瑞々しい香りを、珍しいもののように感じたのだった。
 
 柑橘の実そのものにそうするように、しげるは男の手に軽く歯を立てた。
 くすぐったいのか、低く喉を鳴らす笑い声が降ってくる。

「離せよ。まだやることがあるんだから」
「やることって、なに」
「洗濯物も、溜まってるんだよ」
「そんなの、明日でいいじゃない」
「お前なぁ……」

 呆れたようなため息と、力の抜けた笑い声。

「そばにいて欲しいなら、ちゃんとそう言え」

 空いた方の手でくしゃりと髪を撫でられ、瞼が鉛みたいに重くなっていく。
 近くなる体温。抱き上げられ、ふわりと体の浮く感覚。ベッドの軋む音と、すぐ側から聞こえてくる大きな欠伸。
 ーーまだやることがある、なんて言ってた癖に。
 心をよぎったそんな言葉も、やたらポカポカと温かい体にあっという間に包み溶かされて、しげるは柑橘の香りの手を握ったまま、深い眠りに落ちていったのだった。




 やや人工的な柑橘の、爽やかで、甘苦い香り。
 反射的に、赤木はその香りのする方へ手を伸ばしていた。

 ぼんやりとした視界の中、栗色の髪をした女が、少女のような目をさらに大きく瞠っている。
 その後ろから、黒髪の女が、同じように目を丸くしてこちらを覗き込んでいる。

「……ごめんなさい。起こしちゃいましたね」

 びっくりしたようなその声で、赤木はようやく自分が今まで夢の中にいたことを理解した。

「悪ぃな……、寝ちまってたみてぇだ」

 夢うつつに掴んでしまっていた冷たい手を離すと、女はにっこり笑い、広げ持っていた毛布を畳み始めた。


 野暮用ついでに、久方ぶりにこの二人の旦那の暑苦しいツラでも拝みに来たのだが、折悪く当の本人も野暮用で出掛けていた。
 出直そうとしたところを『きっとすぐ帰るはずだから』と引き止められ、この家でゴロゴロしながら待っている内に、いつの間にか眠ってしまったらしい。

「もうそろそろ、帰ってくる頃だと思うんですけど」
「雨も降ってきたしね」

 女たちが口々に言うのを聞きながら、赤木はぼんやりと、さっきまで見ていた夢を反芻する。


 あの頃のことを、久々に夢に見た。
 きりきりと甘酸っぱくて、微かにほろ苦く、青々とした日々。
 まどろみの中にいるように、心地のよかった関係。

 毛布をかけてくれようとした女の手から香る、食器用洗剤の香りが、過去を共に過ごした男の手を記憶の底から呼び起こして、あんな夢を見せたのだ。

 ーー歳だな、俺も。あんな昔のことを今更。
 いや……、寧ろ、年甲斐もなくまだまだ青いってことか。昔の恋なんてのを思い出すってことは。
 
 取り止めもないことをダラダラと考えながら半身を起こすと、鈴を転がすような笑い声が耳に届いた。
「ん? どうかしたかい」
 尋ねる赤木の目の前で、女たちはどこかくすぐったいような、はにかんだような笑みを浮かべ、互いの顔を見合っている。
「だって」
「ねぇ」
 不思議そうな面持ちの赤木にクスクスと笑いながら、二人は嬉しそうに告げた。
 
「赤木さん、子どもみたいに幸せそうな顔で眠っていたから」
 
 赤木は大きく目を見開き、それから力が抜けたように苦笑した。
「こんなジジィ捕まえて、そりゃあねぇだろ……」
 小さな部屋に、愉しげな笑い声が重なって響く。
 夢の名残の柑橘の香りが、心地よく漂っているかのような、早春の昼下がりだった。







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