Gretel 短文 カイジさん視点 カイジさんが臆病



 昔。
 幼い頃、姉とふたりきりで迷子になったことがある。

 お使いを頼まれていたのだったか、それともおふくろとはぐれたのだったか。
 詳細は記憶の彼方に霞んでしまったが、隣で手を引いてくれていた姉の横顔と、徐々に暮れていく夏の空の、オレンジと紺のグラデーションだけはハッキリと覚えている。

 オレの手を引いて歩く姉は険しい顔をしていたが、決して泣きはしなかった。幼い弟の手前、自分がしっかりしなくちゃと思っていたんだろう。

 でも、周囲が暗くなってくるにつれ、姉の足取りは鈍っていき、その横顔もどんどん悲痛に歪んでいった。
 湿った掌の温度。不揃いの足音。虫の声。

 やがて、ついに姉の足が止まった。
 足音が消え、世界が急にしんとする。
 目の前には、闇に溶けるような道の先。

 ーーどこへいくの

 不安に襲われて、姉の手を握り返しながら尋ねると、勝気な横顔がみるみるうちに歪んで、大粒の涙がこぼれ落ちてきた。

 声をあげて泣きじゃくる姉の隣で、オレは泣くことすらできず、ただ途方に暮れていた。




 そのときの気持ちを、オレはなぜか思い出していた。

 隣には、白い髪と肌を持つ男。
 街灯のほとんどない静かな道を、ふたり並んで歩いている。

 ひさびさに訪ねてきたアカギと、呑み屋を数件梯子して、アパートへ戻る途中なのだ。
 飲んでいた店から次々と閉め出され、最後は屋台に移動して呑んでいたが、そこもついに店じまいとなった。

 もう一軒くらい行けたらよかったのに。
 ふらつく足で歩きながら、そう思った。
 
 単純に、アカギと呑むのが愉しいから、というのも理由のひとつではある。
 けれども、もっと重大な訳があった。

 帰りたくないのだ。
 帰るのがこわい、とも言い換えられる。

 灯りの乏しい、暗い夜道。
 それでも、アカギとふたりきりで過ごす夜は奇妙に明るい。
 明るすぎて、目が眩みそうなほどに。

 くらくらしてきて、オレは足をもつれさせてしまう。
 前のめりに転びかけたところを、腕を掴んで助けられる。
「大丈夫?」
 間近で聞こえる、凛と静かな声。
 鼓膜が震えるのとともに、心も漣をたてた。
「大丈夫じゃない……」
 そっと目を伏せ、ぼそりと呟く。
 すると、もう自力では歩けないという意味に捉えたのか、アカギはオレの腕を肩に回させ、支えながらゆっくりと歩きだした。

 近くなるハイライトの匂い。
 体越しに伝わる体温、鼓動。

 なんだか涙が出そうになってきて、オレは途方に暮れた。

 まるで迷子の子どもみたいだ。
 この先、オレたちはどこへ行くのだろう。

 アパートに戻るとか、そういう物理的な話じゃなくて、ふたりのこれからの道行きについて、オレは漠然とした不安のようなものを感じていた。

 ーーどこへいくの
 幼い頃、姉に投げかけた言葉。
 そんなことを隣にいる男に尋ねたら、きっと呆れられるに違いない。酔っ払いの戯言だと、無視されるかもしれない。

 でも、オレは本気でわからないのだ。
 長い時間を、ふたりで過ごしてきた。
 いつしか、それが苦しくなってきた。

 魂の片割れのように、希有で得難く、いちばんわかる気がするのに、いちばんわからない存在。
 恋をしていると気づいたときには、もう戻れなくなっていた。

 まるで、あの遠い記憶の中の、夏の夜道を行くようだ。
 ほんのはずみで、得体の知れない真っ暗闇にどこまでも飲み込まれてしまいそうで、怖くて尻込みしてしまう。

 戻る道などわからない。道標など置いてきてはいない。
 目の前には、闇に溶けるような道の先。

 それでも、隣にアカギがいるというだけで、奇妙な明るさは消えなくて、オレはあの時の姉みたいに、声をあげて泣き出したくなる。

「なぁ、アカギ。苦しい……」
 
 震える声で漏らしても、アカギはなにも言わない。
 その代わり、体を支えてくれる腕に力が籠められて、体に熱が灯った。

 ーーどこへいくの
 ひょっとしたら、こいつなら明確な答えをくれるのだろうか。
 話してみようか。ずっとずっと言えなかったこと。

 なぁ、アカギ。オレはお前が好きなんだ。
 だけど、どうしようもなく怖いんだ。お前と恋に落ちるのが。

 幾度も心の中で反芻して、なお大きすぎるその気持ちは、結局喉に引っかかり、吐き出すことすら叶わない。
 乾いた掌の温度。不揃いの足音。虫の声。

 姉に手を引かれていた子どもの頃みたいに、声をあげて泣くことすらできずに、オレはひたすら途方に暮れているのだった。





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