そのときは、彼をよろしく・1



 葬儀と通夜の段取りを決め、借金の整理をつけたら、すっかりやることがなくなってしまった。
 残りあと数日。さて、どうやって過ごそうかと思案してみるが、今更、特に思いつくこともなく。
 あまりの所在なさに、数少ない手荷物をひっくり返したりしてみる。
 すると、荷物の底に、薄汚れた茶色いものが、ひしゃげて入っていた。
 黴臭い埃を舞い上がらせながら手に取ってみると、それは鞄だった。若い頃に使っていたものには違いないのだが、果たして、いつ頃使っていたものか。
 自慢じゃないが、物には頓着も執着もしない性質だ。なぜこんなものが、今になって出てくるんだと首を傾げながらも、なんとなくファスナーに手をかけてみる。
 経年劣化により滑りの悪くなったファスナーは、力を込めると硬い音で抵抗しつつも少しずつ口を開いた。
 軽さから予想はついていたが、中は空だった。きっとどさくさに紛れて捨てそびれ、そのまま忘れ去られていたものなのだろう。
 すぐさま興味を失い、その辺にうっちゃっておこうとしたが、呆けて摩耗した筈の感覚が、少しの引っ掛かりを訴えた。
 再度、鞄の中を改める。
 鞄の底に敷かれている、白っぽく汚れた底板。それを外してみると、色褪せた小さな一枚の写真が、隠れるようにしてそこに入り込んでいた。
 
 写真をつまみ上げる。束の間、時が止まったような気がした。
 そこに写っている一人の男。
 長い黒髪。くっきりとした大きな目が印象的な、凛々しい顔立ち。左頬の、裂けたような傷跡。
 写真に撮られ慣れていないのか、四角い枠の中でぎこちなく固い表情を晒している、その男。
 遥か昔、ごく短い期間を共に過ごした男。名前は……、それすらも思い出せない。
 写真の大きさと、男がスーツに身を包んでいることから、これが証明写真だということだけはわかる。
 しかし、いつ、どうやってこの写真を手に入れたのかも含め、それ以外の情報はさっぱりだ。大方、履歴書に貼った余りが打ち捨ててあったのを、気まぐれに拾って持っていたのだろうと、予想はつくのだが。

 そんなことよりも、もっと気になることがあった。
 どうして俺は、この男と離れることになったのだったか。確か、下らない諍いが切っ掛けで、なんとなく足が遠のいて、それぎりになったような気がするが、仔細までは思い出せない。
 男との記憶は何もかもが遠すぎて、霞の中を手探りしているようだ。俺の脳味噌がぶっ壊れてなきゃ、思い出せることもあったのだろうけれど。

 鞄を投げ出し、安楽椅子に背を預けてため息をつく。
 最近、昔の記憶を手繰り寄せようとすると、ひどく疲れるのだ。思い出せないことに苛立ち、歯痒くも思うけれども、肉体の消耗に逆らうことは難しい。
 いよいよ、焼きが回ったな。蛍光灯の灯りを見上げながら目を閉じる。
 せめて夢の中ででも、男の名前だけでも思い出せやしないかと、手中の写真を深く握り込んだ。




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